、何処の人とも分らないので、羽織の始末に困っていらした所でしたわ。私が話をして謝ると、皆で放笑《ふきだ》してしまいました。お隣りの御主人も、やはり変な間違いをなすったことがあるんですって。」
「どんな?」
「あなたのより少したちが悪い、と御自分で云って、お話なすったのですが……。」
 そして彼女の語る所によれば、隣りの主人は、或る日細君と一緒に散歩に出て、細君が何か買物をするのを、ぶらぶら歩きながら待っていた。その買物がまた馬鹿に手間取って、待ってるのが焦れったくなり、初めは店の近くを歩いたり立止ったりしていたが、後には少し遠くまで歩き出し、苛ら苛らしていると、妻君はいつのまにか店から出て来たとみえ、素知らぬ顔で向うへすたすたやってゆくのが、後姿でそれと分った。で彼は少し向っ腹で、後から追付いてゆき、「何を愚図愚図してたんだ、」と小声で叱りつけ、人をさんざん待たせといて、一人で先に帰ってゆくってことがあるものかと、そんな風な泣言を並べながら、彼女が立止って振向いたのをちらっと見ると、それは一面識もないよその女だった。彼はすっかり狼狽しきって、丁度私と同じように、こそこそと逃げ出してしまったそうである。
「あなたの御主人の方は家だからいいが、私の方は他人の細君だから、そりゃあ弱りましたよと、そう云って笑っていらしたわ。そして、これを御縁にちょいちょいお遊びに来て下さいって……。」
「そりゃ皮肉なのかい。」
「いいえ本気よ。」
「へえー。」
 だがその時、私は俄に元気づいて、勢よくはね起きたのだった。そして水をじゃあじゃあ頭に浴せると、愉快な晴々とした気持になった。
「おい、これから時々間違えて、二人で隣りへ押しかけてゆこうじゃないか。」
「何を仰言るのよ、すぐ図にのって。」
「それから、隣りでその外に何か云ってはしなかったかい。」
「いいえ別に……。」そして彼女は一寸考える風をした。「ただあなたと同じことを云っていらしたわ。二軒共余りよく似ていて、不思議なほど同じだって……。」
 不思議なほど同じ……そう私は心の中で繰返して、すーっと日が陰ったような、一寸怪しい心地がしてきた。こうしていても、私の家へだって、いつ間違えて他人が飛び込んで来ないとも限らない。私の妻が、いや殊によると私までが、いつ他人から人違いをされないとも限らない。もしそんなことになったら……。
 そしてそういう気持が、まだすっかり納まりきらないでいる、その日の晩、私は友人と二人で或るカフェーにはいって、つい気になるまま、引越し以来の顛末を話してみた。そして実は、いつも真面目くさってるその友人から、きっぱりと心が落付くような言葉を、それとなく期待していた所が、友人は私が話し終えるのを待って、変に眼をぎらつかせながら云った。
「そりゃあ面白い。実を云うと、僕はその方面では常習犯でね、自分一人かと思って、少し心細がってた所だ。」
「常習犯だって?」
「まあそうだね。……ただ漠然と云ったのでは分るまいから、詳しくその気持を話してみよう。」
 そして彼は、珈琲でぐっと喉を濡おしてあたりをじろりと見廻して、それから話しだした。
「君もよく知ってる通り、僕は一体陰気で無口で沈みがちな男だ。所がどうかした機会《はずみ》で、急に快活に陽気になることがある。その時の僕の心持は丁度、今まで曇ってた空が俄に晴れて、美しい日の光が一面に降り注いでくるようなものだ。そして僕は非常に愉快な軽やかな気持になって、大抵の用なんかは忘れてしまって、浮かれたように街路《まち》を歩き廻るのだ。
「人が沢山通ってる、実に沢山通ってる。その顔がみな親しく感じられて、おい! と僕は呼びかけてさえみたくなる。ばかりならまだいいけれど、とんだ思い違いをすることがよくある。通りすがりにちらと見た顔が、どうも或る知人の顔だと思えてくる。で後を追かけていって、そっと横から覗いてみると、そいつが人違いなんだ。向うは変な顔で見返すし、僕は極りが悪くなって、そのまま黙って逃げ出してしまう。然しその後まで、何だか気になって仕方がない。実際その人は僕の知人であるのに、僕も向うも、何かの調子で他人だと思い違えたんじゃあるまいかと、そんな風に思われるのだ。
「それからまた、こういうこともある。向うから来る人の顔に、確かに見覚えがあるような気がする。それも非常に親しい記憶なんだ。ただその名前だけが、どうしても思い出せない。そのうちに、だんだん近寄ってくる。そして僕は帽子に手をかけて、お辞儀するでもなくせぬでもない、中途半端な態度を取ると、向うでは素知らぬ顔で通りすぎてしまう。呆気にとられてその後姿を見送ると、やはり僕の方の思い違いらしいんだ。と云って、そうばかりでも済まされない気持がする。
「一体君、他人の空似ということが、そう度々
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