、まだ未解決のままなんだ。」
「未解決だって、それじゃ困るね。」
「ああ困るよ。」
 それから私達は思い出したように、冷えきっている珈琲をすすった。そして熱いのをも一杯貰った。それをふうふう吹きながら、彼は湯気の向うから私へ云った。
「僕のは人の顔だし、君のは人の住居だし、どちらも一寸困ることだね。これが二つ一緒になったら、もう立派な気狂だ。」
 気狂と云えば、彼だって私だって隣家の主人だって、もう半ば頭が変梃になってるのかも知れない。そして私の眼には、顔と顔とがごっちゃに重り合い、家と家とがごったになってる、何にも見分けのつかない混乱した世界が、ぼんやりと見えてきた。うっかりしちゃいられない! そう思うとむやみに気にかかって、私はそこそこに友人と別れて、家の方へ帰っていった。家に誰かはいって来てやしないかしら、妻が誰かの妻君と間違えられてやしないかしら、いやそう思ってるこの自分自身が、自分の家や自分の妻を見違えやしないかしら、自分自身を取違えやしないかしら……それが馬鹿馬鹿しいことだけに一層不安になって、大急ぎで足を早めた。
 そしてまた一方には、なぜかしら、なぜかしら? としきりに心の奥で考えていた。すると、地上に石塊《いしころ》のように投げ出されてる、自分自身が、自分の生活が、遠くの方からだんだん目近に見えてきた。この地球の上に、自分のものという一隅の地面もなく、自分のものという一軒の住宅もなく、自分を養ってくれる食物や金銭の蓄えもなく、その日その日を漸く稼いで暮していて、その上、しっかりよりかかるべき理想とか主義とかを持たず、何のために生きてるのか分らない生活をして、ぼんやり日を送ってるのだった。物質的にも精神的にも、全くの無産者だった。それがいけないのかしら……だが、やはり私にだって、爽かな空気も暖い日の光も、多分に存在しているじゃないか。家を間違えたって人違いをしたって、そんなことを構うものか。きっと上下《かみしも》をつけて納まり返ってるのがいけないのだ。真裸になって皆一緒に手をつないで踊り廻ったら、どんなにか面白いだろう。何にも持たないことは一種の強みだ。
 そんな風に私は考えて、非常に晴々とした愉快な気持になったが、それにしてもやはり、自分の家や妻や子供のことを考えると、何だか気になって仕様がなかった。一体どうすればいいというのか?
 私は自分の心が
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