常のことについては非常に記憶の悪い方だが――Nとは五六度逢ったことを思い出した。電車の中で一度、展覧会で一度、往来で二度ばかり、帝劇の廊下で一度、それから……友人の所で初めて紹介された時や、其後友人の家で出逢ったのなどは、勿論計算に入れないとして……まあ其他にもあったようだ。そしてよく考えて見ると、一寸挨拶をしたきりの対面であったが、それが果してNであったかまたはNNであったか、はっきり区別がつかなくなった。で僕はそれを一々Nに問いただしてみた。すると、展覧会でと往来で一度とはNの記憶にもあったが、帝劇の廊下や電車の中のことは、Nには思い出せないらしかった。そして要するに、何だか訳が分らないことになってしまった。
「それから数日後のことだった。僕は銀座通りで偶然Nに出逢った。挨拶をしておいて、僕は真先に尋ねてみた。『あなたはN君ですね。』向うでは笑いながら答えた。『本当のNですよ。名前を聞かなきゃ分らないようでは困りますね。』それで僕は初めて安心したものだ。
「実際君、名前を聞いて初めてその人だと安心するようでは困ることだ。然しNに対しては、僕は妙に怖気がついてしまった。同じような顔付が、頭の中で二つになったり一つになったりした。
「其後、或る薄暗い雨の日だった。僕は込み合った電車の吊革にぶら下って、この電車がひっくり返ったら……などと呑気なことを考えていると、すぐ向うにNが立っていた。はっと気付いて声をかけようとすると、向うから先を越されて会釈をされた。その瞬間だ、僕にはそれがNNに違いないと思われた。どうもNではない。で僕はNNによく話をしてみて、今迄互に何か思違いをしていたことに、きっぱり解決をつけようと考えた。そして歩み寄って行くと、向うからこう云われた。『僕はここで失礼します。僕の下宿はこの向うの○○館ですから、どうかちと……。』そして彼は電車を降りていった。僕は全く茫然としてしまった。いつかちらと聞いたことを思い合せると、其の下宿は君、やはりNの下宿なんだから。」
 卓子の上に両肱をのせ、少し前屈みになって、じっと一つ所を見つめてる彼の眼付――妙にぎらぎら光るものと、沈んだ沈鬱なものとが、交る代る浮んでくる彼の眼付を、私はぼんやり見守りながら、話が途切れても一寸は気付かなかった。暫くして私は漸く促した。
「それから、どうした?」
「どうって、それっきりさ
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