どこへ向いてるのか見当がつかないで、怪しい変梃な気持になって、それでも、隣りの家と自分の家とを間違えないように用心して、つかつかとはいっていった。
 子供を寝かしつけたばかりの妻が、私の足音を聞いて出迎えてきた。私はそれと、室の入口でぱったり出逢った。まごう方ない自分の妻だった。
「お前は春子だね。」
「まあ、あなたは!……また間違えてお隣りへ飛び込みなすったの?」
 瞬き一つしないで呆れ返ってる妻の顔と、それから向うに、くすくす笑いながら渋め面をしている女中の顔とを、私はじろりと見やったが、俄に我ながら可笑しくなって、あはは……と高く笑い出してしまった。
「間違えるものかね。あべこべに、間違えられやしないかと心配したくらいだ。」
「心配ですって!……間違えられる方なら、いくら間違えられたって平気じゃありませんか。」
「平気……そうだ、間違えたって間違えられたって、そんなことを構うものか、平気なものさ。」
 そして私はばかに嬉しくなって、室の中をぐるぐる歩き廻った。こんなちっぽけな家の中にくすぶってるのが、何だか勿体ないような気さえした。
「おい、一緒に散歩に出よう。」
 妻は返事もしないで、私の方を怪訝そうに見守っていた。
「お前は僕を信じていないんだね。そんなこたあいけない。……さあ、外に一緒に出てみよう。外はいい気持だよ。」
「だって……。」
「そのだって[#「だって」に傍点]がいけないんだ。さあ行こう。お前は昔はよく、僕と一緒に散歩したがってたじゃないか。」
 妻は一寸口を尖らしたが、そのままの相恰で笑顔に変って、急いで髪を撫でつけながら、眠ってる子供のことを女中に頼んで、私の後へついて外に出て来た。
「子供を連れて来るとよかったね。」
「だって、もう眠ってるんですもの、可哀そうですよ。」
「それじゃ、また昼間連れて出ることにしよう。」
 穏かに晴れてる晩だった。あるかなきかの風が、香ばしい緑の匂いを何処からか吹き送ってきた。そして私は暫く歩いて、妻へ珈琲と菓子とを奢ってやり、帰りに植木屋の前に立止って、庭に植える樹木を物色してる妻の言葉へ、うわの空で返事をしながら、水が綺麗に振りかけられてる木の葉を、ぼんやり眺めていたが、妙につまらなく馬鹿馬鹿しくなってきた。
「火事でもあるといいが!」
 そんなことを心の中で呟き、そんなことを想像して、私は真赤な焔を頭の
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