、柳秋雲はあの歌のことを自分からいい出しました。
「呂将軍が、芝居の歌が大変お好きだから、なにか美しいのを歌うようにと、前の日から頼まれておりました。それで私、恥しい思いを致しましたが、その仕返しに、美しい歌の代りに悲しい歌をうたってやりましたわ。」
「何をうたったんですか。」
「四郎探母の俗謡ですの。」
荘太玄は憐れみのこもった眼で彼女を眺めました。荘夫人はいたわるようにいいました。
「でも、よくそんなのを覚えていますね。」
「ふだん教わっておりますの。」
そして彼女は、歌の先生のことを話しました。――それは戯曲学校の年とった先生で、一週に一回ずつ教えに来るのでした。柳秋雲の声をひどくほめて、女優になれば必ず成功すると保証してくれました。然し彼女を戯曲学校に入れることは、陳慧君がどうしても承知しませんので、彼も諦めましたが、それからは、歌曲はその芝居を知っていなければ本当にうたえるものではないといって、稽古の時には必ず、自分でその芝居の所作をやってみせました。というのも、陳慧君はどうしたわけか、柳秋雲に芝居の歌を習わせながら、決して芝居を見ることを許さず、一度も戯院へ行かせませんでした。
その歌の先生について、面白いことがありました。或る時、陳慧君と二人の談話のなかで、真珠を粉にしたものをのめば肌が最も綺麗になるという説が、思い起されまして、先生はそれを真実であると主張し、有名な俳優でそれを実行してる者もあると確言しましてから、是非ためしてみられるようにと陳慧君に勧めました。陳慧君は心を動かされたらしく、真珠の粉の効果の真否を、いろいろの人に尋ね、それぞれの意見を、柳秋雲にも伝えて相談しました。すると柳秋雲はいいました。
「歌の先生は、きっと、真珠を沢山持っていらして、売りたがっていらっしゃるのでしょう。買ってあげましょうよ。」
その言葉で、真珠の粉の説は立消えになってしまったのでした。
それを聞いて、荘太玄は愉快そうに笑い、荘夫人は感心して眼を細めました。
けれども、柳秋雲にいわせますと、彼女のその小さな皮肉も、実は荘太玄を学んだものでありました。
嘗て、市長が荘太玄を訪ねて来まして、市長に推挙されかかったこともある彼に、北京繁栄策をいろいろ話し、ついでに、名所旧跡や記念建造物への観光客を世界各地から誘致するための、有効な方法をも相談しました。すると、荘太玄は別な答え方をしました。紫金城や万寿山よりも、五塔寺の古塔や円明園の廃墟の方が、優れた鑑賞者に喜ばれるとすれば、全市廃墟になった後の壮大な城壁こそ、最も優れた鑑賞者に最も喜ばれることでしょう、といったのでした。そしてこの全市廃墟の皮肉は、当時、新新文芸の仲間の話題となっていました。
そのことを柳秋雲から思い出させられて、荘太玄夫妻は顔を見合せて微笑しました。
そして柳秋雲は、なごやかな打解けた空気のなかで、荘太玄夫妻に甘えてるかのようでしたが、突然、荘夫人に悲しそうな眼を向けました。
「私、家へ戻りましてから、あまり刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]をする隙がございませんの。それで……。」
それで、お詫びをしておきたいというのでした。彼女は荘家にいた時、荘夫人から刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]を教わっていまして、上達も早かったのでしたが、家へ戻ってゆく時に、今後いつか花鳥の立派なのを仕上げてお目にかけると、約束したのでありました。その約束がいつ果せるか、また永く果せないか、自分でも分らなくなったから、許して頂きたいというのでした。
「まあ、そんなこと、どうでもいいんですよ。つまらないことを気にしてるんですね。」と荘夫人はいいました。
それでも、柳秋雲は悲しそうな眼色をしていました。そして此度は、荘夫人がいろいろ話をしてやらなければなりませんでした。
そうしたところへ、荘一清がとびこんで来ました。
「柳秋雲さんは、ちょっと僕達の方へ借りますよ。汪紹生も来てるんです。新新文芸のことで打合せをしたいんです。」
「まあ、なんですか、ぶしつけに……。」と荘夫人はたしなめました。
「ははは、若い者同士の方が話は面白いかも知れない。」と荘太玄がいいました。
それで荘一清は、黙って俯向いている柳秋雲を促して、室の外へ、そして庭の方へ出てゆきました。
庭の腰掛に、汪紹生は腕を組んで頭を垂れていました。彼は荘一清からの至急な迎えを受けて、図書館からやって来たのでした。柳秋雲の姿を見ると、彼はつっ立って会釈をしたきり、言葉は発しませんでした。柳秋雲も黙っていました。
「どうだった、気に入ったの。」と荘一清がふいにいいました。
「なんですの。」
「あれ……玩具さ。」
「ええ、素敵ですわ。今日は、そのお礼に参りましたの。」
「でも、よく一人で来られたね。」
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