柳秋雲は曖昧な表情をしました。
「僕達、心配していたんだよ、なんだか気になってね……。」
荘一清は快活な調子を装っていましたが、それきり言葉をとぎらしました。
そして三人は、無言のうちに広庭を歩いてゆきました。暫くして、柳秋雲はちらと汪紹生の方を窺って、突然いいました。
「私、旅に出るかも知れませんわ。」
「え、旅だって……。」と荘一清が尋ねました。
「ええ、駱駝に乗って、長城の上を歩くという夢……あれが、ほんとになるかも知れません。でも……もう玩具も頂いたし……淋しいことも、心配なこともありません……。」
そのゆっくりした調子には、真面目とも戯れとも判じかねるものがありました。
「また、夢の話だろう。本当なら、僕達も一緒に行ってもいいよ。」
「まだ、夢だか、本当だか、よく分りませんの。」
「だから、夢のような話さ。」
それきりまた言葉が絶えました。今までの言葉もすべてなにかごまかしだったことが明らかになるような沈黙が、長く続きまして、二人は池のところまで来ました。
その時、柳秋雲は立止って、苦悩ともいえるほどの緊張した顔付きで、きっぱりといいました。
「あの晩、私は歌をうたいました。今日、も一度、歌をうたいたくなりました。」
返事を躊躇してる二人をそのまま、彼女は池の中間の小亭へ上ってゆきました。その、「北冥之鯤、南冥之鵬」という聯がついてる小亭からは、遙かに、北海公園の小山の上の喇嘛の白塔が見えました。荘太玄はその眺めをあまり好まず、樹木を植えて展望を遮ろうかといったことがありますが、夫人や一清の反対で、そのままになっていたのであります。その遙かな白塔に、柳秋雲は暫く眺め入りました。
朗かな秋の青空に、白塔は今、幻のように浮んで見えました。柳秋雲はそれに眼を据えながら、静かにうたいだしました。
その歌の文句は、はっきり伝えられておりません。それは、柳秋雲が作ったものでありまして、稚拙だが純真で、一脈の清冽さを湛えていたということです。白塔を心の幻に見立てて、それが青にも赤にも紫にも塗られていないことを、淋しみまた嬉しむと共に、いつまでも斯くあれかしと希い、愛情を尊敬してただ黙って去ろう、というのでありました。――その最後の句は、明らかに汪紹生の詩から取って来られたものでありました。
歌調は単純でしたが、彼女の声は美しく澄んでいました。その時彼女は、何の髪飾りもなく服も質素でありまして、遙かな白塔に見入ってるその姿は、都塵を離れた清楚さを帯びて、歌曲にふさわしいものでありました。
全体に、秋の爽かさがありました。
歌がすんでも、彼女は暫く動きませんでした。荘一清と汪紹生は、爽かな気に打たれたようで、無言のまま歩み寄りました。そして振向いた彼女と、三人で顔を合した時、三人とも、なにか茫然とした恍惚さのなかで、微笑を自然に浮べました。
召使の者が紫檀の茶盆を運んで、大きな太湖石の蔭から出てくるのが、見られました。柳秋雲は急に、その方へ駆け出してゆき、荘家にいた頃のように、女中の茶盆を受取って運んで来、なにかお菓子を頂いて来るといい置いて立去りました。
荘一清と汪紹生は、彼女が戻って来るのを、静かな沈思のうちに徒らに待ちました。然し彼女はもう、荘太玄夫妻に挨拶をして帰っていったのでありました。
その翌日の深夜から、次の朝にかけて、呂将軍の急死が市中に伝わりました。脳溢血による頓死だとのことでありましたが、何か怪しい影が感ぜられて、不安な不穏な空気が濃くなりました。そのなかで、高賓如大佐によって、軍隊の方はぴたりと押えられ、市内の動揺の気配も鎮められまして、それがあまり手際よくいったので、変事前から準備が出来ていたらしいとの風説さえ立ったほどでした。そればかりでなく、高賓如はその激しい時間を一時間ほど割いて、荘家を訪れ、心痛している荘一清と汪紹生とに、変事の真相を伝えてくれました。しかも彼の荘家訪問は、公然となされましたので、やがてそれが、周囲の人々の心を落着ける結果をも斎したのでありました。
変事の夜、柳秋雲は陳慧君に伴われて、呂将軍の宿舎を訪れたのでした。高賓如大佐が軍服姿で出迎え、陳慧君はすぐ辞し去り、あとは二人きりになりました。
「よく決心がつきましたね。」と高賓如はいいました。
「前から決心しておりました。」と柳秋雲は答えました。
高賓如の説明によりますと、この決心というのは、或る特別の任務につくことを意味するのでした。彼はこういいました。「局面が一大転換をして、人心が動揺している時、若い美しい女性の声が如何に大きな作用をなすかは、想像以上のものがある。社会に働きかける人々はこのことをよく知っているが、軍人はあまり知らないとみえて、これを利用した者は殆んどない。然るに呂将軍は、この方法をも
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