は、何の髪飾りもなく服も質素でありまして、遙かな白塔に見入ってるその姿は、都塵を離れた清楚さを帯びて、歌曲にふさわしいものでありました。
全体に、秋の爽かさがありました。
歌がすんでも、彼女は暫く動きませんでした。荘一清と汪紹生は、爽かな気に打たれたようで、無言のまま歩み寄りました。そして振向いた彼女と、三人で顔を合した時、三人とも、なにか茫然とした恍惚さのなかで、微笑を自然に浮べました。
召使の者が紫檀の茶盆を運んで、大きな太湖石の蔭から出てくるのが、見られました。柳秋雲は急に、その方へ駆け出してゆき、荘家にいた頃のように、女中の茶盆を受取って運んで来、なにかお菓子を頂いて来るといい置いて立去りました。
荘一清と汪紹生は、彼女が戻って来るのを、静かな沈思のうちに徒らに待ちました。然し彼女はもう、荘太玄夫妻に挨拶をして帰っていったのでありました。
その翌日の深夜から、次の朝にかけて、呂将軍の急死が市中に伝わりました。脳溢血による頓死だとのことでありましたが、何か怪しい影が感ぜられて、不安な不穏な空気が濃くなりました。そのなかで、高賓如大佐によって、軍隊の方はぴたりと押えられ、市内の動揺の気配も鎮められまして、それがあまり手際よくいったので、変事前から準備が出来ていたらしいとの風説さえ立ったほどでした。そればかりでなく、高賓如はその激しい時間を一時間ほど割いて、荘家を訪れ、心痛している荘一清と汪紹生とに、変事の真相を伝えてくれました。しかも彼の荘家訪問は、公然となされましたので、やがてそれが、周囲の人々の心を落着ける結果をも斎したのでありました。
変事の夜、柳秋雲は陳慧君に伴われて、呂将軍の宿舎を訪れたのでした。高賓如大佐が軍服姿で出迎え、陳慧君はすぐ辞し去り、あとは二人きりになりました。
「よく決心がつきましたね。」と高賓如はいいました。
「前から決心しておりました。」と柳秋雲は答えました。
高賓如の説明によりますと、この決心というのは、或る特別の任務につくことを意味するのでした。彼はこういいました。「局面が一大転換をして、人心が動揺している時、若い美しい女性の声が如何に大きな作用をなすかは、想像以上のものがある。社会に働きかける人々はこのことをよく知っているが、軍人はあまり知らないとみえて、これを利用した者は殆んどない。然るに呂将軍は、この方法をも
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