に置かれましたが、池の中間の小亭にさしかかりました時、その小亭の両の柱に、「北冥之鯤。」「南冥之鵬。」という句が懸っているのを指して、彼はいいました。
「昔の人は面白いことを考えたものだ。北冥の鯤だの、南冥の鵬だの、そんな伝説を僕は固より信用しはしないが、その精神には信頼すべきものがある。長城を築いたのも、大運河を掘ったのも、その精神の仕業だ。吾々は長城や大運河を軽蔑してもよろしいが、その精神を笑う権利は持たない。」
それに対して、柳秋雲が静かにいいました。
「そうしますと、私の夢も、お笑いになる権利はありませんわ。」
「どんな夢……。」
「駱駝に乗って、長城の上を歩いてゆきました。」
「おかしい夢だな。」
「ところが、ふと気がついてみて、とても淋しくなりましたの。拳銃を持っていませんでした。私、あの冷りと光ってる、小さな拳銃が一つ、ほんとにほしかったのです。」
「それで、どうするつもりだったの。」
「どうもしませんわ。ただ持っておればよろしいんですの。歌をうたう時計や、枝から枝へ飛び移る金の鳥が、西太后の玩具だったとしますれば、新時代の女性の玩具は、拳銃であってもよろしいでしょう。」
「新時代の女性の玩具か、それは素敵だ。」
「では、その玩具を下さいますか。」
荘一清は振向いて、彼女の顔を見ました。彼女の言葉の調子に、あまりにも静かな重みが籠っていましたし、その顔には沈鬱な色が浮んでいました。
それまで黙って聞いていた汪紹生が、突然いいました。
「一体それは、夢の話ですか、本当の話ですか。」
「自分でも分りませんわ。」
そして彼女は、汪紹生の眼の中へじっと視線を向けました。
「私は家へ帰りますと、全く違った生活のなかにはいります。けれど、いつまでも、あなた方の仲間でありたいと思っております。そのような時に、大事な玩具を一つ持っていることは………ただ持っているだけで、心の支えになるような気がしますの。」
それは承諾を強要する調子であり、今にも泣き出しそうな表情でありました。汪紹生は顔を伏せました。
「二人で引受けよう。」と荘一清が叫びました。
それで凡てが決定しました。
けれども、その実現は延び延びになったのであります。記念の意味や将来への誓いの意味を持った約束は、当事者達だけで秘密に果さなければなりませんでした。そして、相当な額に上るらしい金をひそか
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