白蛾
――近代説話――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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 住居から谷一つ距てた高台の向う裾を走る省線電車まで、徒歩で約二十分ばかりの距離を、三十分ほどもかけてゆっくりと、岸本省平は毎日歩きました。それは通勤の往復というよりは、散歩に似ていました。道筋も気分によって変りました。
 会社の方には殆んど仕事らしいものもなく、出勤時間も謂わば自由でした。戦時中仏印に新らしく設けられた商事会社の、本社とは名ばかりの東京の事務所でありまして、終戦の翌年の四月の末、彼が仏印から帰って来ました時には、もう大体の残務整理もついていて、ただつまらない些末な仕事と、何年先に出来るか分らぬ貿易事業への構想とのうちに、数名の社員が煙草をふかしているのでした。そこへ彼は、毎日だが時間は自由に、顔を出しました。住居は知人の家で、家族が郷里の田舎に移り住んでいますので、ただ一人、六畳と四畳半との二室にのんびりしていました。
 そういう閑暇な生活は、四十歳を越した彼には全く新奇なものでした。その上、新帰国者の彼にとっては、環境もすべて新奇に感ぜられました。敗戦後の政治や思潮や風俗の変転などは言うまでもなく、空襲による東京の変貌は想像以上のものがありました。
 彼が落着いた本郷の一隅は、もう町ではなくて完全に村落でした。四方とも広々とした焼け跡で、処々に小さな家が建ってはいるものの、大体は小さく区切られて耕作され、麦の葉が風にそよぎ、豆類の花が咲き、雑草が伸びていました。その青野の彼方に、走る電車の窓や道行く人の姿が見えました。朝早く湯屋に行く時など、近道をすれば、路傍の葉露に足が濡れました。
 この村落風景が、初めは異様に感ぜられましたが、馴れるにつれて、それはもう都会の廃墟とは思えず、田園そのものとして楽しまれました。彼の生れ故郷が東京市でありましたならば、そしてもろもろの市街情趣が彼の幼時の生活に刻みこまれていましたならば、彼は容易くは惨害を忘れ得なかったでありましょう。だが、彼は群馬県の農村で幼時を育ちました。その幼時の思い出が、焼け跡の野原を楽しませてくれるのでした。
 崖の下の池は、大きな蓄水池とも見做されました。そこには、鯉や鮒や鮠などがたくさん泳いでいる筈でした。たとい下水のそれであろうとも、小さな水の流れは小川とも見做されて、鯰や泥鰌が水草の間にひそんでいる筈でした。雑草の茂みは、灌木のそれに同じで、その下蔭には小鳥が巣くっている筈でした。数本の大木は鎮守の森で、そこには苔生した神社がある筈でした。木立が一列に並んでいる所には、たいてい深い河があって、堰の水音がしている筈でした。そして彼方、藪の向うに、大きな河の堤防があって、それを少し下流へ行ったところに、長い橋がかかっており、橋のたもとに、一軒の飲食店がありました。そこに、お千代さんという美しいひとがいて、彼がまだ中学生の頃、町の盆踊りを見に行った帰りの夜、どうしたわけか、店の二階の小さな室で、二人きり、酒を飲んで酔ったことがありました……。
 そのような思い出を、彼、岸本省平が焼け跡のけちな耕作地の中に見出したのは、何故だかよく分りません。実際のところ、彼の思い出に最も大切な河川などは、焼け跡には一つもありませんでした。彼が散歩のように楽しんで往復する日暮里駅までの間には、市街電車が走っている谷間に、昔は、田端から不忍池へ流れる小川がありましたが、それはすっかり地下の暗渠となっております。その他に細流の痕跡さえもありません。河の堤防などは似寄りのものもなく、彼方の高台は広い谷中の墓地で、田舎に見られない五重塔が聳えています。
 然し、人の感情の動きは、山川草木に関するものではなく、やはり人間に関するものでありましょうか。谷間の暗渠の蓋を取り去ったならば、そこに昔の小川が出現してくるであろうかと思われるような、妙なことが、実は起っていたのです。一言でいいますれば、街々の被覆が取り去られた焼け跡に、あの橋のたもとのお千代さんが出現していました。
 お千代さんについて、岸本省平は、その人柄の漠然たる感じを記憶してるだけで、顔立などはすっかり忘れてしまっていました。そのお千代さんが今、そっくり蘇ってきたのです。お千代さんはあの頃三十歳あまりだったでしょうか。蘇った彼女も同じ年頃でした。普通の瓜実顔にすっきり伸びた頸筋、皮膚は薄くて滑かそうで体は中肉中背といったところでした。ただ、みごとな丸みを持った眉とくっきり長く切れた眼との間が、へんにまのびして、瞼のふくらみが大きく目立ちました。少しく受け口の下唇が、へんにたるんで、その右角が垂れさがり気味でした。じっと物を見る時には、左の眼が少しく持ちあがって細くなりました。それだけの特長ですが、その中に、女性的なやさしさとかふくよかさとか柔かさとか、そういうものを越えて、大袈裟に言えば白痴美とも言えるようなものが湛えられていました。この一種の白痴美が、彼女とお千代さんとを繋ぐ鍵でありまして、お千代さんは彼女のような女であったに違いないし、また彼女はお千代さんの再現ででもあろうかと、なんとなく、岸本省平にはそう思われるのでした。そしてまた、この焼け残りの人家の聚落と焼け跡の貧しい耕作地との中から、静かに立ち現われてくる女があるとしたら、それは彼女のような者であらねばならないし、他の種類の者であってはならないと、そのようにも思われるのでした。つまり、理知的な或は現代的な女ではなく、一種の白痴美を持っている彼女こそ、まさにその処を得てるのでした。
 岸本省平が彼女の方へ眼と心を惹かれはじめたのは、いつどこでだったか定かでありません。彼自ら気がついてみると、彼女を方々で見かけたようでした。町角や都電停留場や店先や焼け跡の木蔭でなどで、或はその瞼の大きなふくらみを眺め、或はその下唇のたるみを眺め、或はその左の眼が物を見つめて細くなるのを眺め、或はその皮膚の薄い滑かさを眺めました。そしてそれが一つにまとまって、没理性的な美しさとして心に残りますと、もういつしか、彼の方から彼女の姿を探し求めるようになっていました。
 会社へ通勤のための日暮里駅までの彼の往復が、あちこち道筋を変えたり、散歩のように楽しかったりするのも、彼女がその主な原因だったかも知れません。
 彼女はたいてい、簡単服だったり、浴衣がけだったり、買物袋をぶらさげていたり、すりきれた下駄をはいていたりして、みなりは粗末でしたが、粗末なだけで汚れは留めず、どこか清楚な趣きがありました。そして顔には薄すらと化粧をし、髪はきれいにとかしていました。岸本省平に眼をとめて、じっと眺めることがありました。或は、くるりと背を向けることもありました。或は、それとなく頭を傾げて会釈することもありました。だが一度も彼女は、笑顔を見せず、微笑の影さえ示しませんでした。
 嘗ての空襲の折、この界隈には、焼夷弾も落ち爆弾も落ちました。その爆弾にやられた小さな洋風建築が一つ、高い崖の上に崩れ残っていました。壁は半ば落ち、鉄骨は傾いていました。それを、三四人の男が、至極のんびりと取り壊していました。鉄骨によじ登って壁土を槌で叩き落したり、あちこちにロープをかけ渡したりしていました。遠く崖下から眺めると、少しも危険らしさは感ぜられず、ただぎらぎらした日の光りの中での遊びに似ていました。崖下の道路の木蔭に、誰か一人の通行人が立ち止ったのをきっかけに、次第に見物人がふえました。岸本省平もその中にいました。
 彼のそばに、いつやって来たのか、彼女が立っていました。じっと立ったまま、崖上の作業を眺めていました。作業は白日の中の幻影のようでした。鉄骨の頂上に登ってる男が槌を振う度に、しばらく間を置いて音響が聞こえてきました。突然、男の姿が消えて、大きな塊りが鉄骨からなだれ落ちました。濛々たる土煙があがりました。その土煙が薄らいでゆくと、細い鉄骨だけが残り、そこに男の姿がまた現われて、鉄骨の上を綱渡りをはじめました……。流れ雲が影を落して過ぎました。
 彼女は岸本にぴったり身を寄せていました。
「何をしているのでしょう。」
 張りのある低い声でした。
「あれを壊すつもりでしょうが……あんなことでは……。」
 言いかけて岸本は、今の場合、その答えの間抜けさを感じました。
「まるで、奇術の練習みたいですね。」
 彼女は返事をせず、ちょっと首を傾げてから、突然、彼の方にくるりと向き直って、その顔をじっと眺めました。左の眼が少し持ちあがって細くなり、垂れぎみの下唇がそのまま引きしまり、その全体の表情が、微笑めいて見えました。それから彼女は彼に全く無関心なように、何の会釈もなく歩き去ってゆきました。
 その後ろ姿を見送って、岸本は、全然見当のつかないものにぶつかった気がしました。
 然し、そういうことは、彼をますます彼女に惹きつけました。
 その後、彼は彼女の住居をも探り出しました。時間によって人通りが多かったりひどく少くなったりする街路から、ちょっと路地をはいったところで、平尾正助という表札の下に、小さく、小泉美津枝という表札が出ていました。然し、この女名前が果して彼女のであるかどうか、そこまで探索することはさすがに為しかねました。

 七月にはいって、急激に暑気が増しました。その暑い日の午後、込み合った省線電車の中に、岸本省平は彼女を見出しました。いつものような簡単服に、大きな袋をさげていました。
 彼女は日暮里駅で降りました。出口の方へ階段を上ってゆく時、その袋が如何にも大きく重そうに見受けられました。岸本は足早に追いついて、ちょっとためらった後、思い切った親しい態度に出ました。
「たいへん重そうですね。持ってあげましょう。」
 彼女は彼を見て、別に意外な様子もなく、すなおに答えました。
「ほんとに、済みません。たいへん疲れました。」
 もう階段を上りきってしまったのに、彼女は袋を彼に渡しました。袋はずっしりと重く、彼女は少し香水の匂いがしていました。
 駅から出ると、彼女は袋を開けて見せようとしました。
「かぼちゃ、とうなす、きゅうり、とまと……それから、まだ何かありました。」
 その往来で、袋を開きかねない彼女のしぐさに、岸本はちと驚きました。――だが、不思議に、お千代さんのことが頭に閃めきました。日暮里駅の裏口の、その田舎めいた風情の故もありましたでしょうか。お千代さんなら、中学生の彼岸本に、重い荷物を持たせて伴させたでありましょう。袋の中の野菜物を往来にぶちまけて平気でいたでしょう。ただ、お千代さんはいつも笑ってばかりいましたが、今、彼女は笑顔ひとつ見せませんでした。
「船橋に行って買って来ました。お魚を買いに行ったんですけれど、もうすっかり無くなっていましたから、野菜にしました。けれど、お肉でも添えれば、野菜の方が、おいしい弁当が出来ますでしょう。」
「弁当を拵えなさるんですか。どこかへ勤めていられるのですか。」
 彼女は返事をせずに、ただ怪訝そうに彼を見あげました。その視線が、へんに鋭く、彼の胸を刺しました[#「刺しました」は底本では「剌しました」]。
 彼は眉をひそめました。彼女がその良人のためか子供のためかまたは誰か身内の者のために、弁当を拵えることは、甚だあり得ることだったのです。それを、彼女が全く独り暮しだと、どうして彼は初めからきめてしまっていたのでしょう。お千代さんとの連想からだったのでしょうか。彼は眉をひそめて、そして、手にさげてる荷物の重みの力をもかりて、突っこんでみました。
「実は、あなたの住所は存じていますが……。あの、小泉美津枝さんというのは……。」
 ゆっくりした調子で彼が言いきれないうちに、彼女は立ち止ってしまいました。
「美津枝はわたくしです。わたくしは美津枝です。」
 不思議そう
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