に彼女は彼を見つめました。その、持ちあがって細まる左の眼は、少しく斜視で、それを中心に、顔全体にさっと冷酷とも言える色が流れました。とたんに、彼女は丁寧なお辞儀をしました。
「申訳ございません。有難うございました。」
 彼女は野菜の袋を受け取ろうとしました。
 彼はそれを拒みました。
「どうなすったのです。何かお気に障ったら許して下さい。お宅の近くまでお伴しましょう。決してお宅へ寄りはしませんから……。」
 彼女は首垂れて、そして歩きだしました。そのゆっくりした歩度に彼は足を合せました。
 暫く無言が続きました。その無言のうちに、彼は、彼女のうちにあるもの、表面的な一種の白痴美の底にひそんでいるものを、推測しかねました。彼は静かに言いました。
「お目にかかり初めてから、もう三ヶ月にもなります。そして……どうしたのか私は、もっとよく、あなたのことをいろいろ知りたくなりました。私からも、いろいろお話したいことがあります。日本では、男女の交際は、まだ、世間的にむつかしいかも知れませんが、お互に精神さえしっかりしておれば、咎むべきことではありますまい。そのうち、ゆっくりお目にかかれませんでしょうか。外をぶらぶら歩いてもよろしいし、どこかへ行ってもよろしいのですが……。」
 言ってるうちに、彼は自分で嫌になりました。お千代さんは彼を勝手に引っ張り廻しました。彼も彼女を勝手に引っ張り廻すべきではなかったでしょうか。
「ねえ、どこかへゆっくり行きませんか。」
 暫くたって、彼女は独語のように答えました。
「連れていって下さいますの。」
「ええ、行きましょう。」
「ほんとに連れていって下さいますの。」
「ほんとです。」
「いつにしましょう。」
「明日……明後日……そう、その翌日の土曜日はどうでしょうか。」
「何時頃にしましょう。」
「そうですね、午後三時頃から如何ですか。あの、墓地の並木道の、五重塔のところで待ち合せましょう。」
「土曜日の三時……。」
「そうです。」
 そのような約束をしながら、岸本省平はちと変な気がしました。彼は彼女に愛情を懐いてはいましたが、彼女の方のことは更に見当がつきませんでした。それに、対話の調子もおかしく思われました。然しいろいろな反省の余裕はなく、もう彼女の住居の近くへ来ていました。彼はその路地の入口に立ち止って、彼女へ野菜の袋を渡しました。彼女は彼を見もしないで言いました。
「家まで来て下さいませんの。」
「今日は許して下さい。」
 彼女は重い袋をさげて、心に何の思いもなさそうに歩いてゆきました。

 岸本省平はなにか焦燥に似た懸念に囚えられました。時がたつにつれて、危険とは言えないまでもとんでもない冒険に突進してるのではあるまいかという気もしました。或はまた、何でもないことを大袈裟に考えてるのではあるまいかという気もしました。そしてそのどちらからともつかない曖昧さが、更に彼を焦ら立たせました。一層のこと、あの日すぐに、せめてその翌日に決行しないで、三日も延すだけの配慮をしたことが悔いられるのでした。仏印のハノイにいた頃、或るお茶の会の席から、某夫人を誘い出して、二人で自動車を駆って山荘に行き、夜半まで遊び暮したことなど、新たに思い出されました。
 約束の土曜日になりますと、彼は仏印みやげの香水などちょっと体にふりかけて、三時前に、五重塔のところへ行きました。緑青色の屋根を重ねた重厚な感じのその高塔に眼を据えて、肚を据えてかかる気持ちを固めました。
 ところが、彼より先に美津枝は来ていました。桜の並木の蔭から立ち現われて、真直に彼の方へやって来たその姿に、彼は眼を見張りました。いつもより濃く化粧をし、髪のカールを一筋乱れぬまでに梳かしつけ、薄鼠色の地に水色の井桁を散らした薄物をきりっとまとい、一重帯の帯締の翡翠の彫物を正面から少しくずらし、畳表づきの草履を白足袋の先につきかけ、銀の太い握りの洋傘を絽刺の[#「絽刺の」は底本では「絽剌の」]ハンドバッグに持ち添えていました。それだけのことを彼が見て取ったほど、彼女は今時珍らしい粋ないでたちでした。それでも、彼女はやはり笑顔も見せませんでした。
「お待ちしておりました。」と彼女は言いました。
 それから、ちょっと歩こうと言って、彼女は彼を墓地の中へ誘いました。五重塔と高さをきそってる大きな銀杏の木のほとりを、ただ無言のうちにぐるりと一廻りして、そして元の所に出ました。
 彼女は尋ねるように彼の顔を見上げました。
「とにかく、どこかへ落着きましょう。」
 彼女は頷きました。
 何かの場合のため、人の込み合う乗物はいらない近くに、彼は場所を物色していました。
 焼け残りの一角の外線、こんもりと大木の茂ったひっそりした所に、高級旅館の名を掲げてる洋館がありました。大きな邸宅だったのをそのまま使用してるのでした。門構えからちょっと坂道をのぼって、玄関のベルを押すと、前日岸本が声をかけておいた時の女中、質朴らしい若い女が出て来ました。そして二人は、六畳の日本室と円形の洋室とがじかに接してるのへ案内されました。窓の外は木影や植込みで、清凉の気が室内にも漂っていました。
 岸本は背広の上衣をぬいでネクタイをゆるめ、美津枝は端坐して扇を使い、畳敷の方に卓をはさんで向い合いました。
「わたくし、昨日もあすこでお待ちしておりました。一昨日もお待ちしておりました。」と彼女は言いました。
「しかし、今日、土曜日というお約束だったでしょう。」
 彼女はそれを、耳に入れないのか或は気にしないのか、何の返事もせずに、窓の外に眼をやったきりでした。
「ほんとに静かないい家ですこと。」
 岸本はちょっと落着かない気持ちでした。貴婦人らしい装いの彼女は、その白痴美らしい感じ以外、もうお千代さんともすっかり異って見えました。ハノイの某婦人などとは全然異っていました。岸本はやたらに煙草をふかしました。
 あり合せの小料理ものを添えて酒が運ばれてくると、岸本はほっと息をつきました。
「あの、お泊りでございましょうか、それとも……。」
 その点は、岸本も不用意でした。女中が出て行ったあと、彼は他人事のように美津枝に尋ねました。
「どちらでもおよろしいように……。」と彼女は平然と答えました。
 その白々しい顔を、岸本は不気味に眺めました。彼女が花柳界などの空気を吸った女でないことも、また、ひそかに男客を取るような女でないことも、極めて明らかでした。そうだとすれば、なにか性的欠陥のある中性的な女だったのでしょうか。そういう様子も見えませんでした。岸本は自分の感情の持ちように迷いました。それでも、一方、彼女のその平然さに、彼は一種の安心をも覚えました。
 彼は速度を早めて酒を飲みました。ウイスキーも飲みました。彼女も彼から勧められるまま、酒を飲みました。女としては相当の酒量らしいようでした。
 庭には蝉が鳴いていました。昔、お千代さんの室でも蝉が鳴きました。夜中なのに、室にとびこんできた一匹のつくつく法師が、電灯の笠の上方のコードに逆様にとまって、大きな声で鳴きました。お千代さんは冗談話をやめて、その蝉を見上げました。お千代さんがまた話をしだすと、蝉がまた鳴きだしました。彼は今も、お千代さんの話は少しも覚えていませんが、蝉の声ははっきり覚えていますし、その小柄な体の透き通った翅までよく覚えています。あの時彼は、蝉を捕えて外に助けましたが、その機会に、お千代さんから遁れるようにして、酔った勢いで闇夜を走って家に帰りました。
 その時のことが、事実だったのか夢だったのか、分らない気持ちに岸本はなりました。酒の酔いはまだ浅いのに、気持ちだけはなにか夢幻的に深まってゆきました。
 その深みに、彼はすっかり落着いて、美津枝に対しては幼な馴染みのような親しみを覚えました。昔のことはとにかく……それから後どうしているかと、ぽつりぽつり、話が進んでゆきました。――彼女は浅草で空襲に逢い、良人やその両親を失い、自分も危く死ぬところでしたが、不思議に怪我一つしないで助かり、今は知人の家に間借りして、兵隊として南方に行ったまま消息不明な弟を待っていると、だいたいそのような境涯らしいようでした。もっとも、それとて、彼女の曖昧な言葉を種に、酔った岸本が想像したことで、真偽のほどは分りかねます。
「墓地のあの銀杏の木と、ちょうど同じ大きさの木がありました。そのまわりを、火がぐるぐる廻って追っかけてきました。わたしもぐるぐる廻って逃げました。鬼ごっこのようでした。そして物に躓いて倒れて、つかまったかと思いましたら、火はもう消えておりました。」
 岸本は楽しそうに笑いました。彼女は笑いはしませんでしたが、やはり楽しそうでした。
 岸本は大陸の話をしました。おもに虫や動物のことを話しました。人間のことは殆んど彼女の興味を惹かないようでありました。
 酒もあき、僅かな鮨をたべ、蚊帳の中に寝ました。
 酔った岸本が記憶しています限りでは、彼女は殆んど性的衝動を示さず、何等の積極的態度にも出ませんでした。それと共に、全く羞恥の念もないかのようでした。謂わば、娼婦からその閨房の技巧を全く取り去ったような工合に、真白な体を彼に委ねました。或は彼女は酔いつぶれていたのでしょうか。
 岸本がふと眼をさますと、彼女は背を向けて寝ていました。蚊帳越しの淡い光りに、彼はじっと、彼女の頸から肩のあたりの白い肉体を眺めました。カールを外巻きにした黒髪から、寝間着の襟のずり落ちてるところまで、その裸の肉体は、骨は軟骨でもあろうかと思われるまでに、ただ滑らかな曲線と凹凸を画いて、自然の重みに放置されていました。薄い細やかな皮膚がその肉附に融けこんで、餅の表面をでも見る感じでした。それはもう、彼女小泉美津枝のものではなく、ましてや彼岸本省平のものでもなく、なにか人間から離れた物質でした。それが、彼にとって何の関係がありましょう。先刻彼がかき抱いた彼女と、何の関係がありましょう。新奇な遠い物質で、それが白く温く柔かなだけに却って不気味でもありました。
 岸本はなにか蠱毒された心地で、すっかり眼をさましてしまいました。蚊帳がゆらいで、ばたばた音がしていました。白い粉がかすかに散っていました。頭をもたげて見ると、真白な大きな蛾、掌よりも大きな白蛾が、蚊帳にとまりかねて羽ばたいていました。拇指ほどもある大きな腹部の重さをかかえて、しきりに羽ばたいていました。その純白な大きな四枚の翅は、美しいというよりは奇異でした。
 それを岸本はじっと眺めていました。すると、眠っていた筈の美津枝が、静かに上半身を起して、寝間着を片方の肩からずり落したまま、白い蛾を見つめました。その頬は蝋のようで、体には息使いの動きさえないようでした。彼女は長い間蛾を見つめて、やがて蚊帳から出ました。そしてもう蛾の方は見向きもせず、ゆっくりと、着物をつけはじめました。
 岸本は驚いて、彼女の手を捉えました。
「どうしたんです。」
 彼女はじっと彼を眺めて、頭を振りました。
「もう帰りましょう。」
 水の中のような、然し抗し難いものを秘めてるような、そういう声音と岸本には感ぜられました。
 彼の言葉には、彼女はそれきり返事をしませんでした。そして、今晩は帰るとしてもよいが、一週間後にまた逢って下さるかと、彼が哀願するように言いましたのに対して、彼女は返事のためか自分自身に言いきかすのか分らぬしぐさで、二度ほどゆっくり頷いてみせました。
 時計を見ると、十一時になっていました。白い蛾はもうどこかへ行っていて見えませんでした。

 岸本省平の胸のうちに、彼自身でも意外なほど、美津枝に対する愛情が燃えあがってきました。彼は彼女に逢いたくて、会社への往復に、彼女の住所の附近をぶらつきましたが、彼女の姿は更に見つかりませんでした。
 そして一過間後の午後三時前に、彼は約束の五重塔のところへ行きました。曇り空の蒸し暑い日でした。然しそこに彼女は姿を見せませんでした。桜の並木の間や、墓地の銀杏の木のほとりまで、彼は
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