何度もさまよいました。四時になっても彼女は来ませんでした。
彼は決心して、ほど近い彼女の住居を訪れました。表格子のところで、ふり仰いでみると、もう小泉美津枝という小さな表札は無くなっていて、そこだけぼんやりと白ずんでいました。
彼は格子戸を開けて、案内を乞いました。
頭を坊主刈りにして歯のかけてる老人が出て来ました。小泉美津枝のことを尋ねますと、彼女は突然、四日前に静岡へ移転したとの返事でした。岸本は呆然として佇みました。
善良そうな老人は、岸本の様子をじろじろ見調べてから、言いました。
「まったく、藪から棒の話で、私共でも驚きましたよ。もっとも、あのひとは、ここが少し……。」
老人は人差指で額を叩きました。
「少し変でしてね、時々おかしいことがありましたよ。静岡へ行く少し前など、毎日、ひどくおめかしをして出かけましたが、或る晩は、夜更けに戻ってきて、なんだかしくしく泣いてるようでした。それが、ふだんは正気なもんで、はたからは何のことやらけじめがつきませんでね。元からあんなじゃなかったんでしょうが、いろいろ不幸が続いたもんですから……気の毒でしてね。」
老人はいろいろ話したかったようでしたが、岸本は堪えられない思いで、静岡の住居だけを聞いて、辞し去りました。静岡の家は、彼女の伯母に当るとかいう由でした。
岸本はすべてが明るくなった思いをしました。その明るさの中で、ただひしと彼女がいとおしく、同時に自分自身が醜悪に感ぜられました。その醜悪な自分を嘖む気持ちで酒に浸り、酔いがさめてはまた彼女を想いました。一度は静岡への汽車の切符を買いましたが、それを裂き棄てて、代りに手紙を書きました。
その手紙の一節にこういう意味の文句がありました。――私は日夜、あの白い大きな蛾を幻のように心中に描き出しています。その蛾は私の愛情と自責とを燃えたたせます。率直に申せば、今こそ私は、あなたを真実に愛していますし、あなたの精神の一種の弱みに乗じてあなたを誘惑したことを、血を搾って自責しています。私は人間としてあなたの足下に跪きます。あなたもどうか人間として、この私を眼にとめて下さい。たとい葉書一枚でも一行の文字でも宜しく、あなたのその眼差しの証しを私に下さい。
そういう意味を中心とした手紙も、先方へ届いたかどうか分りません。小泉美津抜からは何の返事もありませんでした。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
1946(昭和21)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング