、彼女は笑顔ひとつ見せませんでした。
「船橋に行って買って来ました。お魚を買いに行ったんですけれど、もうすっかり無くなっていましたから、野菜にしました。けれど、お肉でも添えれば、野菜の方が、おいしい弁当が出来ますでしょう。」
「弁当を拵えなさるんですか。どこかへ勤めていられるのですか。」
彼女は返事をせずに、ただ怪訝そうに彼を見あげました。その視線が、へんに鋭く、彼の胸を刺しました[#「刺しました」は底本では「剌しました」]。
彼は眉をひそめました。彼女がその良人のためか子供のためかまたは誰か身内の者のために、弁当を拵えることは、甚だあり得ることだったのです。それを、彼女が全く独り暮しだと、どうして彼は初めからきめてしまっていたのでしょう。お千代さんとの連想からだったのでしょうか。彼は眉をひそめて、そして、手にさげてる荷物の重みの力をもかりて、突っこんでみました。
「実は、あなたの住所は存じていますが……。あの、小泉美津枝さんというのは……。」
ゆっくりした調子で彼が言いきれないうちに、彼女は立ち止ってしまいました。
「美津枝はわたくしです。わたくしは美津枝です。」
不思議そう
前へ
次へ
全23ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング