うが……あんなことでは……。」
言いかけて岸本は、今の場合、その答えの間抜けさを感じました。
「まるで、奇術の練習みたいですね。」
彼女は返事をせず、ちょっと首を傾げてから、突然、彼の方にくるりと向き直って、その顔をじっと眺めました。左の眼が少し持ちあがって細くなり、垂れぎみの下唇がそのまま引きしまり、その全体の表情が、微笑めいて見えました。それから彼女は彼に全く無関心なように、何の会釈もなく歩き去ってゆきました。
その後ろ姿を見送って、岸本は、全然見当のつかないものにぶつかった気がしました。
然し、そういうことは、彼をますます彼女に惹きつけました。
その後、彼は彼女の住居をも探り出しました。時間によって人通りが多かったりひどく少くなったりする街路から、ちょっと路地をはいったところで、平尾正助という表札の下に、小さく、小泉美津枝という表札が出ていました。然し、この女名前が果して彼女のであるかどうか、そこまで探索することはさすがに為しかねました。
七月にはいって、急激に暑気が増しました。その暑い日の午後、込み合った省線電車の中に、岸本省平は彼女を見出しました。いつものような
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