見向きもせず、ゆっくりと、着物をつけはじめました。
岸本は驚いて、彼女の手を捉えました。
「どうしたんです。」
彼女はじっと彼を眺めて、頭を振りました。
「もう帰りましょう。」
水の中のような、然し抗し難いものを秘めてるような、そういう声音と岸本には感ぜられました。
彼の言葉には、彼女はそれきり返事をしませんでした。そして、今晩は帰るとしてもよいが、一週間後にまた逢って下さるかと、彼が哀願するように言いましたのに対して、彼女は返事のためか自分自身に言いきかすのか分らぬしぐさで、二度ほどゆっくり頷いてみせました。
時計を見ると、十一時になっていました。白い蛾はもうどこかへ行っていて見えませんでした。
岸本省平の胸のうちに、彼自身でも意外なほど、美津枝に対する愛情が燃えあがってきました。彼は彼女に逢いたくて、会社への往復に、彼女の住所の附近をぶらつきましたが、彼女の姿は更に見つかりませんでした。
そして一過間後の午後三時前に、彼は約束の五重塔のところへ行きました。曇り空の蒸し暑い日でした。然しそこに彼女は姿を見せませんでした。桜の並木の間や、墓地の銀杏の木のほとりまで、彼は
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