は今も、お千代さんの話は少しも覚えていませんが、蝉の声ははっきり覚えていますし、その小柄な体の透き通った翅までよく覚えています。あの時彼は、蝉を捕えて外に助けましたが、その機会に、お千代さんから遁れるようにして、酔った勢いで闇夜を走って家に帰りました。
その時のことが、事実だったのか夢だったのか、分らない気持ちに岸本はなりました。酒の酔いはまだ浅いのに、気持ちだけはなにか夢幻的に深まってゆきました。
その深みに、彼はすっかり落着いて、美津枝に対しては幼な馴染みのような親しみを覚えました。昔のことはとにかく……それから後どうしているかと、ぽつりぽつり、話が進んでゆきました。――彼女は浅草で空襲に逢い、良人やその両親を失い、自分も危く死ぬところでしたが、不思議に怪我一つしないで助かり、今は知人の家に間借りして、兵隊として南方に行ったまま消息不明な弟を待っていると、だいたいそのような境涯らしいようでした。もっとも、それとて、彼女の曖昧な言葉を種に、酔った岸本が想像したことで、真偽のほどは分りかねます。
「墓地のあの銀杏の木と、ちょうど同じ大きさの木がありました。そのまわりを、火がぐるぐる
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