を見もしないで言いました。
「家まで来て下さいませんの。」
「今日は許して下さい。」
 彼女は重い袋をさげて、心に何の思いもなさそうに歩いてゆきました。

 岸本省平はなにか焦燥に似た懸念に囚えられました。時がたつにつれて、危険とは言えないまでもとんでもない冒険に突進してるのではあるまいかという気もしました。或はまた、何でもないことを大袈裟に考えてるのではあるまいかという気もしました。そしてそのどちらからともつかない曖昧さが、更に彼を焦ら立たせました。一層のこと、あの日すぐに、せめてその翌日に決行しないで、三日も延すだけの配慮をしたことが悔いられるのでした。仏印のハノイにいた頃、或るお茶の会の席から、某夫人を誘い出して、二人で自動車を駆って山荘に行き、夜半まで遊び暮したことなど、新たに思い出されました。
 約束の土曜日になりますと、彼は仏印みやげの香水などちょっと体にふりかけて、三時前に、五重塔のところへ行きました。緑青色の屋根を重ねた重厚な感じのその高塔に眼を据えて、肚を据えてかかる気持ちを固めました。
 ところが、彼より先に美津枝は来ていました。桜の並木の蔭から立ち現われて、真直に
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