寄来しただろう。」
 音吉は顔を挙げたが、すぐに眼を外らして、遠い山の方を見やった。
「おたか[#「たか」に傍点]じゃねえよ。」
「嘘云うねえ。おらにはちゃっと分ってるだ。おたか[#「たか」に傍点]が工場に行く時から、お前は約束しただろう。……あいつ、まだお前を引張ろうというんだな。太え女《あま》っちょだ。あんな者にかかり合っちゃあ、お前のためになんねえぞ。」
「おら何もおたか[#「たか」に傍点]をどうってんじゃねえが……。」
「馬鹿云うねえ。もう村の者あみんな知ってるだぞ。おら一人知らねえとでも思ってるんか。……なあお前、出来たこたあ仕方がねえが、町せえ行ったなあ仕合せだ、あんな図々しい女っちょなんざあ、これきりふっつり思い切ってしまうがええだ。他に立派な娘っ子が、村にいくらもいるだ。」
「おらおたか[#「たか」に傍点]のことどうこうって云うんじゃねえよ。町せえ行って少し儲けて来てえばかりだ。」
「だがの、お前が行っちまったら、後はどうなるだ。男手はおら一人きりじゃねえか。よく考えてみろ。」
「じきに戻ってくるだ。うんと稼ぎためての、お前にも楽させるだ。」
「おら楽なんぞしたくねえ。天道様にすまねえだ。……お前も本当に身を入れて働えてみろ。この荒地はおいらが手で拓くだと思ってみろ。これくれえ立派な仕事はねえ。」
「どうあっても町せえやってくんねえのか。」
「昨晩云って聞かせた通りだ。まあ働けるだけ働くだ。そのうちにはな、おらがお前にええ嫁めっけてやるだ。辛棒しろよ。早まっちゃいけねえ。」
「おら嫁なんか貰わねえよ。」
 平助はじっとその顔を見つめた。
「お前何だな……おたか[#「たか」に傍点]から手紙を貰っただろう。」
 音吉はただ頭を振った。
「隠してるな。……だがまあええや。うんと働えてみろ。働えてるうちには気が変ってくるだ。」
 音吉はもう何とも云わなかった。やがて力なく立上って、ただ機械的に鶴嘴を振い初めた。
 太陽が西の山の端に沈んで、遠くに入相の鐘が鳴り出すと、平助はすぐに仕事を切上げた。そして二人は荒地の側の小川で、鍬と鶴嘴とを洗った。それから泥のついた手足を洗い、最後に汗にまみれた顔を洗った。水の中には白い藻の花が咲いていた。
 音吉はその藻の花にじっと見入った。平助は空を仰いで天気模様を見た。それから音吉の方へ向いて云った。
「余り一つことをくよくよ考え込むもんじゃねえよ。」
 彼等が家へ帰ってゆく頃には、夕暮の薄靄が野の上を蔽うていた。村落のまわりには夕炊《ゆうげ》の煙がたなびいて、西の空は赤く夕映に彩られていた。帰り後れた二三の鳥が、塒《ねぐら》を求めて空を飛んでいた。遠くに牛の鳴く声が長く響いて、そのまま静に日が暮れていった。
 そして翌日になると、輝かしい朝日の光を受けて、晴々とした平助の顔と打沈んだ音吉の顔とが、また荒地の上に見出された。

 朝の四時頃である。
 東の空がほのぼのと白んできて、重く垂れていた靄が静に流れ出した。山蔭や森蔭にはまだ夜の気を湛えながら、爽かな明るみが地平の彼方から覗き出し、それにつれて星の光が薄らぎ、微風が野の上を渡っていった。そしてしっとりと露の下りた草木の葉が、瑞々しい青い匂いを空中に散じていた。
 音吉は足早に村を出て、街道を進んでいった。新らしい紺飛白《こんがすり》の単衣に白縮緬の兵児帯を巻きつけ、麦稈帽に駒下駄をはいていた。
 彼は東の空を仰ぎ見た。輝き出した黎明の色と消えかかった星の光とを見ると、不安そうに後ろを振返り見た。と西の空には、まだ幾つも星が輝いていた。彼は淋しい笑顔をして、また足を早めた。
 荒地の側を通る時、掘り返し積み捨てられた草木の塚を、灌木の茂みの彼方に認めて、彼はふと足を休めた。それからやがて、ふらふらと荒地の中に歩み入った。草葉の露が彼の紺足袋を濡らし、着物の裾を濡らした。野をつき切るとすぐに、昨日まで彼と彼の父とが開墾してきた地面があった。夜のうちに湿気を受けた土地は、健かな黒々とした肌を展べて、茅草の長い葉が青々と蘇って、真直にすいすいと出ていた。
 音吉は懐手のまま其処に佇んで、暫くじっと考え込んだ。朝靄が地面に低く匐い流れて、稲田のほのかな匂いが漂っていた。村落の森はまだ夜気に黝んでいたが、何処からともなく小鳥の声が響いてきた。
 小鳥の声の合間に、遠く口笛の音がした。音吉は我に返って耳を澄した。口笛の音はすぐ近くに響いた。目籠をかついで街道をやってくる専次の姿が見えた。
 音吉は我知らず、両の拳を握りしめ眼を見据えたが、すぐに苦笑を洩らして、荒地を横切って街道の上に出た。そして専次を待ち受けた。
 専次は喫驚した眼を見開いて、音吉の姿をじろじろ見廻した。
「早えな。」と音吉は声をかけた。
「草刈りに出ただ……。一体お前はそ
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