っていた。
平助は、自分の手で開墾された土地が、水に浸され馬に鋤かれ、村の娘達の唄声につれて稲苗が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されるのを、にこにこした輝かしい顔付で眺めた。
「地所は旦那のものでも、おいらがそれを拓《ひれ》えたんだ。」
其処に彼と彼の一人息子との、激しい労働と生活とがあった。大地の黒い土が健かであると共に、彼等の力も健かだった。
「だが、こんな仕事つまんねえなあ。」
音吉がそう云い出したのは、村のおたか[#「たか」に傍点]が遠い町の製糸工場へ行ってからだった。
「お前《めえ》、そんなこと云って、旦那にすむと思うか。」と平助は云った。
「それでもね、町せえ行きゃあ、うんと金が儲からあ。おらが町でこれくれえ働きゃあ、お父つあんなざあ寝ててええだ。」
「馬鹿云うねえ。他処せえ行って、稼ぎためて戻って来る者あ一人もありゃしねえ。みんな遊びばかり覚えやがって、極道者になるが定《じょう》じゃねえか。」
平助の頭に殊に深く刻みつけられてるのは、死んだおてつ[#「てつ」に傍点]のことだった。嫁入って間もなく、良人と共に山向うの炭坑へ行ったが、少し小金がたまると、良人は酒と賭博とに深入りし、何処の者とも知れない茶屋女に引っかかって、その女と一緒に出奔してしまい、おてつ[#「てつ」に傍点]は幼い娘を連れて、乞食のような風で舞い戻って来たのだった。それからまた、村の誰彼のことも平助の胸に浮んだ。生活が困難になるにつれて、村の若い者は毎年二三人は屹度遠くへ流れ出した。町の工場へ行く者もあれば、遠く山を越えて炭坑へ行く者もあった。そして多くは、服装《なり》ばかりは立派だが懐中は無一文で、漂然と村へ帰って来て、また何時しか遠くへ去ってしまうのだった。そういうことが村の若者の心に、惰気と不安定とを知らず識らず齎していた。
「おいらが若え時分には、みんな地面にかじりついていたものだ。」と平助は考えた。
「みんな立派な服装《なり》で戻って来るじゃねえか。」と音吉は云った。
「そんなこと云ってお前《めえ》、旦那にすむと思うか。」と平助は繰返した。
「すむもすまねえもねえや。おらあおらが力で稼いでるだ。旦那なんざあ、旨え物あ食ってのらくらしてさ、ただじゃあ一文だっておいらに呉れゃあしねえ。」
「その代り人一倍心配もしてござるだ。何もねえ方が気楽でええとよく仰言るじゃねえか。」
「そんなこたあ勝手な云い草だあ。」ぶつりと云い切って音吉は父の顔をじっと見た。「なあ、兎も角おら一人でええから、暫く町せえやってくんねえか。」
「いやいけねえ。」と平助は強く頭を振った。
二人は暫し無言のまま、太陽の炎熱の中に立ちつくした。やがて音吉はほっと溜息をつくと、自棄に鶴嘴の柄を握りしめて、木の根といわず草叢といわず、大きな土塊を起していった。平助はその後を鍬で耘《うな》いながら、草木の根を土から選り分けて、それを荒地の[#「荒地の」は底本では「荒町の」]片隅へ運んで、小高い塚を築いていった。
そして彼等の太い息と汗の匂いと、胸の底の思いまでが、蒸し暑い大気に包み込まれてしまった。何処かで鳴いてる蝉の声が、じりじり照りつける日の光と融け合って、大地の上に重くのしかかっていた。
太陽が西に傾いて、蒸し暑い大気の密度がゆるみ、土の匂いがほのかに漂いだす頃になると、平助と音吉とは別々な感じで、その一日の労働を味わった。平助は益々仕事に身を入れ、音吉はぼんやり考え込んだ。
遠い山陰に夕靄の色が湛え初めると、音吉は鶴嘴を投出して草の上に坐った。
「もう戻ろうよ。」
声をかけられても平助は鍬を離さなかった。
「なまけちゃいけねえ。日を見てみい、まだ照ってるじゃねえか。おいらが若え時分にはな、日が入《へえ》って寺の鐘が鳴るまじゃあ、仕事を止めなかったもんだ。坊様がなんで鐘をつかさるか、お前は知るめえ。野良に出てるみんなの者に、もう戻るがええと知らして下さるためだ。」
「だが今日はもううんと働えたじゃねえか。」
「働えた上にも働かなくちゃあ、生き甲斐がねえ。」
音吉は口を噤んで、西の山に傾いた赤い太陽を仰いだ。それから眉根を寄せ、両膝の上に頭を垂れて、じっと考え込んでしまった。
「頭痛でもするんか。」
音吉は喫驚したように顔を挙げたが、それをまた膝頭の上に伏せて、思い込んだ調子で云い出した。
「なあ、おらを暫く町せえやってくんねえか。」
「まだそんなこと考えてるんか、昨晩あんなに云ってきかせたになあ……。お前、一体町せえ行って何するつもりだ。」
「製糸工場で人を傭うだとよ。おら其処で暫く稼えで、金がたまったらじき戻って来るだ。」
平助は彼を上からじっと見下した。
「おたか[#「たか」に傍点]がそんなことお前に云って
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