んな服装《なり》して………。」
「これから町せえ行くだ。」
 そして音吉は相手の顔色を窺った。
「ああそうか。」と云いながら専次は眼で笑った。「おたか[#「たか」に傍点]んとけえ行くんだろう。知ってるだとも。大丈夫誰にも云やしねえよ。……早う行けよ。」
「誰にも云わねえか。」
「云やしねえったら。……おらもなあ、そのうち逃げ出そうと思ってるだ。こんな所《とけ》え愚図ついてちゃつまんねえや。その時は頼むぞ。……だが早う行けよ。めっかると面倒だぞ。」
「よし。」
 音吉はすたすたと街道を進み出した。歩きながら懐の財布に手を触れてみた。向うの雑木林の彼方には、一筋の軽便鉄道が走っていた。
 専次は其処に佇んで、音吉の姿が雑木林の中に見えなくなるまで見送っていた。それからほっと溜息をついたが、急に思い出したように、路端の草の上に手洟をかんだ。

 その日は、そしてなお数日の間は、平助の姿が荒地に見られなかった。
 雨のない暑い日が続いた。太陽が沈むと、西の空は紅く夕映の色に染められた。夜が明けると、強い朗かな朝日の光が大地の上に照った。そして昼間は、陽炎が野から立昇り、水田の水が湯のように温んだ。午後になると大抵、どちらかの山の峰から、恐ろしい入道雲が覗き出した。そして大きく頭をもたげて、中空を襲いかけるうちに、ゆるやかに横倒しに散らばって、絹糸の風になびくがようにたなびいて、いつしか紺青の空の奥深く消え失せていった。
 そして或る日、遂に雷雨がやって来た。北の山の端からむくむくと脹れだしてきた雲は、見るまに恐ろしい勢で空を蔽うた。銀糸で縁取った白い綿のようなのが、真黒な渦巻きに変って、忽ちのうちに太陽を包み込み、やがて一陣の涼風が平野の上を渡って、大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。地平線まで黒い影に鎖される頃から、篠つくような驟雨が襲ってきて、電光と雷鳴とがその間を暴《あ》れ狂った。
 野や森や村落や、凡てのものが息を潜めて、雷雨の暴威の下に黙り返った。麦畑や稲田の上には、風につれてさっと雨の飛沫が立った。濁水が四方から川へ落ち込んで、満々と渦巻き流れた。そして空から地上へと、蒼白い電光が横ざまに滑り落ちて、長く尾を引きながら轟き渡った。
 それが一時間ばかり続くと、何処からともなくただ白い明るみがさしてきて、大地の胸がほっと息をつき初めた。いつしか雷は止み、雨は霽れ、太陽の光が輝いた。空には雲雀の声が聞え、樹梢には蝉が鳴き立った。凡てが清く輝かしかった。木も草もその一つ一つの葉末に、水滴が美しく光っていた。
 その時、村を出て街道をやってくる平助の姿が見えた。驟雨に洗い出された道路の砂利の上を、少し腰を曲げ加減にゆっくり歩いてきた。
 彼は荒地の中にはいって行き、開墾されてる地面の側に佇んだ。尻端折った着物の下から覗いてる両脛が、妙にひょろひょろと細く、肩のあたりが頑丈に角張っていた。やがて彼は其処に下駄をぬぎ捨てて、開墾地の中に踏み込んだ。柔い黒い土地の上には、雨に叩かれて飛び出てる小石が幾つもあった。彼はそれを一々拾い上げては、草木の根の小高い塚の方へ投げやった。土をふるい落されて幾日も日に輝らされたその草木は、堆く積まれたまま枯れかかっていた。
 平助はふと物に慴えたように立上って、あたりをぐるりと見廻した。湿った大地に強い日の光が照りつけていて、水蒸気が静に立昇っていた。田にも畑にも街道にも、人影一つ見えなかった。村落の森はひっそりと静まり返っていた。
 平助は暫くぼんやり立っていたが、また腰を屈めて小石を拾い初めた。そして大凡見えるだけの小石が無くなると、ぬぎ捨てておいた下駄を片手にさげ、片手を前帯の間につっ込みながら、真直に村の方へ帰っていった。

 翌日朝早くから、また平助の姿が荒地の上に見え初めた。彼は自分で鶴嘴を使いまた鍬を使った。おかね[#「かね」に傍点]が時々鎌を下げてやって来た。背の高い灌木や大きな木の切株を自家の薪に、美しい草を野田の旦那の馬の飼葉に、自分で刈って運んでいった。
「お父つぁん、おらにも鍬を執らしてくれよ。」と彼女は云った。
「お前は日傭稼ぎをした方がええだ。」
「だっておらあ、お父つぁんの側で働きてえだもの。」
 彼女は甘えるような眼付で父の顔を見上げた。然し平助は見向きもしなかった。
「いやいけねえよ。こんな仕事は女っ子のするこっちゃねえや。」
「じゃあお前一人ですっかりやるつもりだか。」
「そうだ、おら一人でやるだ。音の馬鹿が逃げ出しちまやあ、もうおら一人の仕事だ。」
「ほんとにやれるけえ。……無理しちゃいけねえがなあ。」
「おらの仕事だもの、おらがするだ。」
 おかね[#「かね」に傍点]は[#「 おかね[#「かね」に傍点]は」は底本では「おかね[#「かね」に傍点]は」]それきり諦め
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