て、頼まれればいつでも日傭稼ぎに出かけていった。ただ晩飯は向うで食って来ないで、早めに戻って父とおみつ[#「みつ」に傍点]と三人一緒に食べた。その上彼女は、日傭稼ぎに出ても、合間を見ては父の側にやって来ることが出来た。
 丁度稲田の初番《しょて》の草取りの時期になっていた。村の者達は幾人か連れ立って、手甲脚絆のいでたちで稲田へ出かけてきた。平助が去年から拓いた稲田にも、そういう人達が野田の旦那に傭われてやって来た。
「この荒地は肥えてると見えるな。稲が青《しげ》りきってるだ。平助どんの骨折り甲斐だけあらあな。」
「なあに、みんなしてよく肥してくれるからだ。」と平助は答えた。
「いや地体が肥えてなきゃあ、こうした稲の色は出ねえよ。」
「色だけじゃ仕様がねえ。」
「いやそうでねえよ。初作《はつざく》とは思えねえくれえだ。これで二年三年となりゃあ、立派な一等田だ。」
 そうかも知れねえ、と平助は思った。仕事に疲れると鍬の柄を杖に佇みながら、喜ばしげな眼付で稲田を見やった。実際その開墾地の稲田は、稲の株の張り方は遅かったけれど、伸びがよくて黒ずんだ勢のいい青さを呈していた。その間を賑かに、草取りの達人の日笠が竝んで進んでいった。その中にはおかね[#「かね」に傍点]も交っていた。見覚えの[#「おかね[#「かね」に傍点]も交っていた。見覚えの」は底本では「おかねも交っていた。見[#「。見」に傍点]覚えの」]彼女の笠が他の人達から後れやしないかと、平助は時々伸び上って眺めた。然しおかね[#「かね」に傍点]は男にも負けない働き者だった。
 男達が一寸煙草を一服する間に、彼女は急いで父の所へやって来た。
「お父つぁん、疲れやしねえか。」
「なあにおらあこの年まで鍛えた身体だ。それよかお前こそ若えから、ゆっくりやるがええぞ。」
「ああゆっくりやってるだ。」
「じゃあええから、早う向うに行けよ。」
 平助は彼女を来るとすぐに追いやってから、俄に荒々しい眼付で荒地の上を見廻した。
「おらが生きてるうちに、この荒地を拓えてやるだ。」
 そして彼は力強く鍬の柄を握りしめた。

 稲田の初番の草取りが終ると、急に荒地の附近には人の姿が見えなくなった。畑の麦はもう刈り取られ、田の稲は伸び伸びと育っていた。村の人々は何処へか、他の処へその労働を移していた。ただ平助だけは、毎日同じ荒地を開墾し続けた。初め彼の強情を笑っていた人も、やがてそれを驚歎し初めた。野田の旦那も幾度か、他の村人と合同してはと勧めてみた。然し平助は一人でやると云い張った。彼の仕事はもう彼|独自《ひとり》の生活となっていた。
「地所は旦那のものでも、仕事はおらがものだ。」
 そして彼は殆んど一日も休まなかった。朝早くから元気よく鍬と鶴嘴とをかついでやって来た。そして寺の入相《いりあい》の鐘が鳴るまでは戻って行かなかった。音吉が出奔してから変った点は、日に焼けた額の皺が目立って深くなったことと、口元に何となく粗暴な影が漂ってきたこととだけだった。
 街道には時々遍路者の姿が見えた。大抵二三人連れ立って、互に話をするでもなく傍見もしないで、路の埃を軽く立てながら通り過ぎていった。平助はいつも、その後姿を見えなくなるまで見送った。然し村人の誰彼が時折り通りかかるのに対しては、彼は余り愛相がよくなかった。
「精がでるなあ。」
 そういう挨拶に対して、彼はただ「ああ」と気の無い返辞をして、すぐに向うを向いてしまった。
 然しその頃から、平助はよく孫娘のおみつ[#「みつ」に傍点]を荒地へ来さした。
 おみつ[#「みつ」に傍点]はもう隣村の小学校に通っていた。夏休みの間中は、庄吉の家へ生れっ児の子守にいっていたが、九月に学校が始まってからは、午後はすっかり隙だった。学校から帰って来ると、誰もいない開け放しの自分の家に飛び込んで、一人で勝手に食事をして、その朝おかね[#「かね」に傍点]が拵えておいた弁当と渋茶の土瓶とを、平助の所へ持って来た。平助は自分で弁当を持って出ないで、おみつ[#「みつ」に傍点]がそれを届けてくれるのを楽しみにした。そして夕方まで彼女を荒地に引止めておくことが多かった。
 野田の旦那の長男の健太郎が、都の専門学校から夏の休暇に帰省した時、おみつ[#「みつ」に傍点]は綺麗な麦稈帽子を貰った。平助はそれを大事にしまっておいて、彼女が学校に行く時も被らせなかった。が不意にそれを取出して、弁当を届ける時には被って来いと云いつけた。着物も顔も手足も黒く汚れているのに対して、その新らしい麦稈帽子だけが、黄色がかった白色にぱっと冴えていた。
 荒地の中には、白や赤や黄の小さな花が方々に咲いていた。稲田の畔道には、紫雲英《れんげそう》の返り咲きもあった。小川の中や稲田の水口には、小さな魚が群れていた。お
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