みつ[#「みつ」に傍点]は古蚊帳の切端で作って貰った手網で、それらの小魚をしゃくったり、野の中で花を摘み集めたり、蝉の脱殻を探し廻ったりした。
 おみつ[#「みつ」に傍点]が余り遠くへ行くと、平助は伸び上って呼んだ。
「みつ[#「みつ」に傍点]う、みつ[#「みつ」に傍点]う。」
 何度も呼ばれてから漸くおみつ[#「みつ」に傍点]は戻って来た。
「余り遠くに行くでねえぞ。虫に螫されたり怪我したりするといけねえからな。おらが近くで遊ぶんだ。」
「お父つぁんは仕事ばかりしてるから、おらつまんねえもの。」
「よしよし、あとで大きい鮒をとってやるだ。」
 然し彼はなかなか仕事の手を休ませようとはしなかった。おみつ[#「みつ」に傍点]は遊び疲れ、退屈に疲れると、彼が掘り起した草木の根を運んで、少し手伝おうとした。
「お前がそんなことするんじゃねえ。」と平助は叱りつけた。「あっちで遊んでろ。」
 おみつ[#「みつ」に傍点]はどうしていいか分らないで、顔を脹らましながら、荒野の中に一本聳えてる榎の木影に屈んだ。やがては其処に寝そべって、いつしかうとうとと眠った。
 平助はやって来て、彼女の寝顔にそっと麦稈帽子をかけてやり、きょとんとした顔付で、また仕事の方へ戻った。

 朝日の光が静に照っている時、平助は荒地の上に屈んで、昨日から幾度も見た音吉の手紙をまた読み返した。それには、家を逃げ出した詫びやら、製糸工場の有様やら、町のさまざまな娯楽のことなどが、平仮名ばかりで書いてあった。少し金を送れるようになるまで手紙を書かないつもりだったが、その金の目当もほぼついたから……、とそんなことも書き添えてあった。
「うめえこと云っておらを瞞《ごま》かそうとしてやがる。……畜生、何で許すもんか。」と平助は口の中で呟いた。それでも彼は手紙を、大事そうに襯衣《シャツ》の隠しにしまった。
 その半日、彼はいつもより力強く働いた。額から流るる汗を泥にまみれた手の甲で払った。
「おらが力でやってみるだ!」
 そして満足そうに煙草を一二服吸った。それからまた音吉の手紙を取出して、一通り読み返したが、忌々しそうに眉根をしかめながら、それでもやはり大事そうに襯衣の隠しにしまった。
 そのまま彼はじっと考え込んだが、暫くすると急に立上った。街道を越した向うの方に、里芋の畑が見えていた。彼は其処まで行って、大きな芋の葉を一枚取って来た。榎の木影に穴を掘って、水をくみ入れた芋の葉をその中に据えた。それから稲田の水口を見て廻った。鮒の子が幾つも泳いでいた。抜足してそっとはいり込んで、水草の影に隠れたのを押えようとすると、指の下からするりと逃げてしまった。幾度も失敗した後に、可なり大きなのを一匹捕えることが出来た。それを両の掌の中に持ちながら、榎の下まで馳けてきて、芋の葉の水の中に放った。そしてまた出かけていった。
 鮒の子三匹と鯰の子一匹とで、平助は満足した。芋の葉にとろりとたまった水の中で、それらの小魚が泳ぎ廻るのを、彼は珍らしそうに眺め入った。それから立上って太陽を仰いでみた。おみつ[#「みつ」に傍点]がやって来るにはまだ早かった。彼は芋の葉の上に木の枝を被せて、開墾しかけた処へ戻っていった。
 熱い大気が重くのろのろと流れていた。蝉の声と小鳥の鳴声とがぱったり止んでしまうような、蒸し蒸しする静かな瞬間があった。それでも、拓き残されてる荒地には、草木が茂り虫が飛び小さな花が咲いており、去年から開墾された水田には、水がぬるみ稲が青々と育っており、開拓されたばかりの地面は、黒々とした肌から陽炎を立てていた。そして南の山の峰からは、むくむくとした入道雲の白い頭が、もう少しばかり覗き出していた。
 平助は其処に佇んで、それらのものを一目に見やった。眼の中がぎらぎらしてくると、二つ三つ瞬きをして、白い街道の上を村の入口まで透し見た。おみつ[#「みつ」に傍点]の綺麗な麦稈帽子も、また誰の姿も見えなかった。
 土壌の匂いが彼の肌に染み込んできた。真上からじかに太陽の光が照りつけていた。彼はしゅっと掌に唾液を吐きかけて、鶴嘴の柄を力強く握りしめた。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「青年」
   1924(大正13)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティ
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング