土地に還る
――近代説話――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宿明《しゅくあけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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東京空襲の末期に、笠井直吉は罹災して、所有物を殆んど焼かれてしまいました上、顔面から頭部へかけて大火傷をしました。そして暫く病院にはいっていましたが、退院後は、郵便局勤務の同僚の家に寄寓して、引き続き郵便局に勤めました。
彼の火傷は大きな痕跡を残しました。額から頬へかけて、顔の左半面、皮膚が引きつり、その中央に、打撲の跡があり、耳がちぢれ、耳の後ろに太い禿げがありました。それから、左眼の瞼がひどく損傷して、全くあかんべえの眼になっていました。むくれ上った瞼の裏側がいやに赤く、むき出しの大きな目玉がいやに白く、両方相俟ってぎょろりとして、物の底まで見通すかと思われるような眼差しでした。――その火傷の跡は、現代の外科医術を以てすれば、或る程度の修復は出来るそうでありましたが、手術を受けるほどの余裕は、あらゆる点で、笠井直吉にはありませんでした。戦争の焼印として、彼はそれを自分の肉体の上にじっと負いました。
この火傷の跡に対して、殊にあかんべえの眼に対して、人々が取る三つの態度に、笠井直吉は気付きました。或る人々は、なにか珍らしい物でも発見したかのように、それをじっと眺めました。次に或る人々は、それを一目見て、すぐに視線をそらしました。次に或る人々は、それがそこにあることを知っていて、見ない先から眼をそむけました。
そういうことによって、笠井直吉は、自分が特異な存在であることを感じました。そして謙遜な彼は、自分のその特異さを、なるべく人目につかないところへ後退させようとしました。郵便局では、彼は奥の事務を執っていましたが、窓口の方には、そこがどんな状態であろうと、決して近づかないことにしました。日常は、なるべく出歩かないことにしました。その代り、これは自己卑下の気持ちからして、配給物の受け取りなどには、隣組のために進んで出かけました。
彼が好んで身を置くところ、というよりは寧ろ、好んで身を隠すところは、焼け跡の耕作地でした。終戦の年から翌年へかけて、食糧の窮迫と食糧危機の予想とにより、至る所にある焼け跡は、奪い合うようにして耕作されました。蟻が巣のまわりに餌をあさり歩くように、焼け残りの人家の聚落から四方へ耕作の手が延ばされました。その中で彼は、立ち後れながらも、あちこちに耕作地を占拠しました。地主や借地者にもわたりをつけました。そして彼の畑地は、最もよく耕されたものの一つとなりました。ただ、彼の農耕は、食糧を得るのが目的ではなく、謂わば内心の憂悶の吐け口だったのです。
彼は時間に充分の余裕がありました。郵便局は所謂三番勤務で、日勤の日は終日ですが、次の宿直の日は午後四時から出ればよろしいし、次の宿明《しゅくあけ》の日は午前九時から退出してきました。日勤の日にも、月に二回は閣令休暇があり、十日に一回は特別休暇がありました。それ故、殆んどいつも耕作に出られるのでした。そして甚だゆっくりと仕事をしました。
瓦礫を拾いのけ、土を掘り起し、その土をふるいにかけ、畝を立て、種を蒔き、苗を植え、雑草をむしり、虫を取り、時には水をやり、支柱を拵えるなど、いろいろな仕事がありました。それらのことを、彼はなにか物案じげな様子で、ゆっくりとしました。肥料としては、ただ堆肥だけを使い、下肥は用いませんでした。下肥を嫌がったわけではなく、その臭気が内心の思いを邪魔するからだったのでしょうか。
土の匂いと青葉の匂いとの中で、彼が最も思い悩むのは、木村明子にどう返事を書いたらよいかということでした。
木村明子はもと、笠井直吉と同じ郵便局の事務員でした。東京空襲が激しくなってきた頃、彼女の住家は強制疎開で取り払われることになりました。それを機会に、彼女は両親につれられて、郷里の福井県に帰りました。それから彼女はしばしば、笠井直吉に手紙をよこしました。直吉も手紙を書きました。その通信が、直吉の罹災と共に途絶えました。彼女は二三回、直吉の旧住所へ手紙を出したらしく、その後は、郵便局宛によこしました。この郵便局宛のが彼女の許へ返送されなかったことによって、彼女は直吉の沈黙を悟り、その沈黙の理由を知りたがり、次には沈黙を恨んできました。然し、直吉は返事が書けませんでした。
彼はただ、胸が痛みました。彼女のことを想うと、直ちに、自分の顔の火傷の跡が痛切に意識されるのでした。
彼と彼女の間の愛情は、清らかなものと言えたでしょうし、または遊びごととも言えたでしょう。それは、少年の仲に見らるるもののようでもありましたし、または老人の仲に見らるるもののようでもありました。
直吉の思い出のなかに、執拗に繰り返し浮んでくるのは、次のようなことでした。
彼が彼女の肩に頭をもたせかけていますと、香油をぬりこんだ彼の長髪を、彼女は静かに撫でてくれ、いつまでも撫でてくれました。それからこんどは、彼女が彼の肩に頭をもたせかけますと、女には少しく荒らすぎるその髪を、彼はごく静かに撫でてやりました。
彼女は彼の耳朶を指先でもてあそぶのが好きでした。彼は擽ったいのを我慢しました。が彼女の方は、彼が彼女の耳朶にさわるのを、容易くは許しませんでした。
二人寄り添ったまま、彼女は遠く宙に眼をやりました。その彼女の顔を、彼は倦きずに眺めました。あまり眺めていますと、彼女は突然にっこり笑って、掌で彼の眼を覆いました。
互に抱き合うと、彼女は彼の頸筋に顔を埋め、彼は彼女の髪に顔を埋めました。彼女はしばしば、彼の指を一本ずつきつく握りしめました。力一杯に握りしめるようでした。
そのほかいろいろなことをしましたが、それらの愛の表現は、たいてい肉体に即したものでした。彼女は何度も彼に、あなたの眼は美しいと言い、あなたの髪の毛は柔いと言い、あなたの耳の恰好はりっぱだと言いました。その甘やかすような語調が、彼の心に深く刻まれました。
然し、今、彼の左半面のその眼や耳や髪は、無惨な姿になっていました。そのぎょろりとした赤目で、じっと見られましたなら、彼女はどうすることでしょう。
彼は彼女に手紙が書きにくく、打ち案じながら月日を過しました。罹災のことを書くとすれば、どうしても、火傷のことを書かなければなりませんでした。彼にとって真の罹災は、僅かな衣類や道具や書籍のことではなく、直接に肉体上のことでした。而もそれを除外した手紙は、今のところ全く無意味に感ぜられました。
彼は彼女のこと、遠い木村明子のことを、しきりになつかしく慕わしく想い偲び、胸を切なく痛めながら、もう二人の間は何か大きな運命とも言えるものに距てられた気がしました。その大きな運命とも言えるものの象徴が、彼のぎょろりとした大きな赤目でした。そのために彼はますます孤独になりました。
ただ一人で、時には淋しい憂苦に浸って、時には白けきった放心状態にあって、彼は耕作地の野菜を育てました。そういう時彼は、顔の左半面を太陽の光に曝しました。その無惨な火傷の跡を、白日のなかに恥じるどころか、寧ろ陽光に焼き焦がそうとしてるかのようでした。
そういう彼の火傷の跡を、何の憚りもなく好奇心もなく、謂わば無関心にぶしつけに、じっと見つめてくる眼が一つありました。田中正子の眼でした。
田中正子は、笠井直吉と同じ隣組の中にいました。父は公証人役場に書記をしていて、家事や世事にはひどく冷淡な偏屈人だとのことでした。母はいつも病身でぶらぶらしているとのことでした。終戦の年の末、兄が復員によって朝鮮から帰って来て、或る小さな印刷所の庶務に勤めているとのことでした。それらはみな真実だったでしょう。だが、笠井直吉にはそれはどうでもよいことでしたし、彼等の姿を見かけることもめったにありませんでした。ただ正子にだけ、彼は自然と親しくなってゆきました。配給物のことをはじめ隣組内のいろいろな用事の際、用達しや入浴の途上での出逢いなど、彼女に接することが多かったのです。
正子はもう三十歳ほどになっていました。へんに肌が白い感じの女で、眼と口とが、実際は普通なのに、少しく大きすぎると思われるのでした。なにか特殊な表情によるのだったでしょうか。然し彼女の表情は豊かではありませんでした。じっと無表情に自分を抑制してるかと思われるふしさえありました。
初めのうち、彼の方に、彼の顔に、殊に彼の火傷の跡に、ぶしつけに注がれる彼女の視線を、彼は不愉快に思ったものでした。然し馴れるにつれて、その視線に気を留めなくなりました。彼女の視線はただ、どこかへ向けておかなければならないからそこへ向けておく、とそういう性質のもののようで、何かを穿鑿して吸収しようとしてるのとは違っていました。後になると、彼は、自分の大きな赤目やちぢれた耳や耳の後ろの禿げなどを、彼女からじっと見られても、ただ日にあたり風に吹かれるぐらいにしか感じなくなりました。彼女の方でも、日がさし風が吹くような調子で、少しの遠慮もなく彼の火傷の跡に眼をやるのでした。
彼女自身、五体が満足ではなく、少しく跛でした。右の膝関節の屈曲がなめらかでなく、そして右足がちょっと長すぎるか短かすぎるかして、歩調と腰つきに均整がとれませんでした。羽織でもふわりとまとっておれば、それはうっかり見過されるぐらいの程度のものでしたが、それでも、注意深い視線にはすぐに分りました。そういう視線を彼女は日常自分の身に感じているので、それで、他人にも、笠井直吉にも、同様な視線を向けない術を心得ていたのでしょうか。それとも、そんな視線を不用とするような特別な心境に在ったのでしょうか。
それはとにかく、彼女は自分の跛について、一種の自信めいた解釈を持っていました。それを笠井直吉に語るのが嬉しそうでもありました。
大きな籠を持って、野菜物をもらいに、直吉の畑へやって来た、或る時のことです。小さく区切った畑地の境界線伝いに、道路からはいって来て、瓦礫の堆積にちょっと踏みかけた時、正子はよろけて、籠を投げ出すと共に、自分の体も地上に投げ出しました。直吉が駆け寄ってゆくと、彼女はもう起き上って、大きく見える眼と口で笑いました。そして独語のように言いました。
「足が不自由なのは不便だわ。」
それから彼女は直吉の顔をじっと見て、同感を求めるように言いました。
「でも生れた時はこんなじゃなかったんですものねえ。」
それが直吉にはよく分りませんでした。
「生れた時が……どうしたんです。」
「生れた時は、ちゃんとした身体だったんですよ。」
小さい時、学校にあがる前頃、関節炎かなにかそんな病気をして、それから足が悪くなったのだそうでした。
「誰だって、生れつき片輪じゃありませんわ。」
「しかし、生れつきそんなのもあるでしょう。」
「それは別ですわ。」
彼女の言うところは、つまり、生れながらの不具者は別として、満足に生れて後に五体に損傷を受けた者は……ということなのですが、それから先を、彼女はこう言いました。
「りっぱに生れついたんだから、それでいいんです。」
その中に彼女は、彼女自身と直吉を一緒にして言っていました。それがあまりはっきり感ぜられましたので、直吉は、思いが自分の火傷のことに戻ってきて、もうその話を打ち切りたくなりました。そして、天気のことや野菜のことに話を転じ、時なし大根や漬け菜を彼女に抜き取ってやりました。
野菜の籠をかかえて跛をひきながら行く彼女の後ろ姿を、直吉はじっと見送りました。
五体が満足に生れつけばそれでよろしい。もしいけないとすれば、さし当り傷痍兵士などはどういうことになるのでしょう。然し、直接自分の火傷のことになると、その考えに直吉は安んじられませんでした。詮じつめれば、五体不満足に生れつ
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