んでした。それが後天的なものであるならば、それをプラスとなすだけの心境があらねばなりませんでした。
 彼は火傷の時のことをちらと思い浮べました。狭い通路を走りぬけて、一面の火焔の海を突き切ろうとしかかったとたん、がーんと横面に燃える木材の一撃を受けて、そこにのめってしまいました。その後はもう無我夢中で、誰に助けられたか、どうして其処から脱出したか、はっきり分りませんでした。また、病院のベッドの上で闇黒な数日を過した後、左眼が失明せずにすんだことが分り、その眼で朝日の光りを眺めた時も、やはり夢のようでした。深い痛苦とか歓喜とかは、どこにも見当りませんでした。
 愛情さえも、彼はたいして感じたことがありませんでした。明子との戯れは、それもあの当時のことに遡れば、ただの戯れに過ぎませんでした。正子との親しみも、愛情などというものからは程遠い、ただの親しみに過ぎませんでした。それでは、今、彼女のことを想って心痛むのは何故でしょうか。彼女は何故に自殺などをはかったのでしょうか。しかし、明子のことを想っても心痛みましたし、明子は沈黙の相手にも手紙を書き続けました。いったい彼自身だけが、愚かで鈍感で
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