怪しい幻覚が私を囚えた。薄穢い豊満な肉体をしている女中が、そこの障子に姿を写すのを待受けて、一人の色情狂が佇んでいる。それが私自身の姿に乗り移ってきた。私は堪らなく忌わしい怪しい心乱れがして、つと其処を離れて歩き出した。暫くして或る電柱の影から、何とはなしに振返ってみると、先刻の窓からはただ茫とした淡い明るみがさしてるきりで、其処には何の姿も見えなかったが、そうして電柱の影から覗いてる自分自身と、同じ場所に同じ姿で、何かを待伏せしている刑事の影が現われてきて、しきりに私へ乗り移ろうとし初めた。私は喫驚して歩き出した。すると今度は、私と同じように酔っ払って帰り後れた愚かな男の影が、私の身にぴったりとくっついてきた。
私はもう歩くことも立止ることも出来なくなった。同じ場所を同じ時刻に同じような姿をして、嘗て歩いたろう人影や嘗て佇んだろう人影が、何処からともなく飛び出してきて、私にぴったりくっつこうとする。ただ茫とした捉え難い影で、いずれも、同じようでありながら全然異っている。
そうして私は、下宿までの僅か四五町の裏通りの中に、一々数えきれないほどの人影を、というより寧ろ、人の気を見た。石塀の先端、差し出てる植込の枝下、垣根のほとり、門口の廂の下、電柱の立ってる三つ辻、溝の横の標石の上、往来に面してる窓際、其他凡そ人の身を置き得るあらゆる場所に、歯をくいしばった者、何かを見つめてる者、眉根をきっと寄せてる者、白い歯並をむき出して笑ってる者、髪を振乱してる者、其他嘗ていろんな人がしたろういろんな姿が、それと定かに表情は分らないが、ただ気配でそういう風に感ぜられる、茫とした幽気となって、宙に浮いたように佇んでいて、通りかかる私の方へ、ふらふらと寄って来て、私の身体へぴったりくっつこうとした。私は走ることも立止ることも出来ず、重い足を無理やりに運ばせながら、叫ぼうとしても声は出ず、殆んど息もつけないで、ただ空の方を見あげたが、空は黒ずんで星影一つなく、遙の彼方に繁華な街路の灯が、不気味な薄赤い色を濁った大気に映していた。おう何という広々とした都会だろう! 何という不気味な混濁した都会だろう! 無数の人がうようよと重なり合って、種々雑多な行為を繰返して、何と息苦しく大気を濁らしてることだろう! そして今凡ての人が自分自身の巣の中に眠ってるこの夜中に、嘗てそれらの人の為した姿が、形体を離れた影の気となって、何と無数に迷い出してることだろう!
私は漸くにして下宿の前まで辿りつき、硝子戸を引開けて垂布をくぐって、慴え惑った眼付をほっとした気持ちで定めると、例の大きな掛時計が、悠長に長い振子を振っていた。それを見ると、もう自分の城廓の中に戻ったという気がして、安堵の吐息をつくことが出来た。
それまでは、まだよかったが……。或る日私は、妙に肌寒い薄曇りの午後三時半頃、朝からの球突に疲れて、懐手をしながら帰って来た。下宿まで二三十間ばかりの処へ来ると、その自分の下宿の門口に、ぼんやりつっ立ってる若い男の姿が見えた。変な奴だな、と私が思うと同時に、向うでも私の方に気付いたのか、ふらりと門口を離れて、私の方へ歩いてきた。そして一二分の後に、私はその男と擦れ違ったが……ぞっと身体中が寒くなった。不思議なことには、その男の顔付も服装も何一つ私の眼には留っていず、その足音一つ私の耳にはいっていないで、まるで風のような男だと、擦れ違う瞬間に気付いたので、すぐ振向いて眺めたが、その男の姿は何処にもなく、人影一つ見えない静かな通りが、午後の薄明るみを白々と湛えて、向うの角まで一目に見渡された。私は吃驚して、その気持がまだ静まらないままに足を早めて、下宿の玄関に飛び込むと、途端に、真正面の大時計が、一つぼーんと半時を打った。そのままで、女中一人出迎えず、いつものお上《かみ》さんの顔も見えず、家の中は空家のようにがらんとしていた。変だなと思って佇んだ時、先刻の男の姿がいつのまにか、恐らく擦れ違った時からであろう、私にぴったりとくっついてるのが感じられた。私はぶるっと身震いをして、自分の室に駆け上った。
そのことが、昼間だけに一層私の気にかかった。昼間から彼奴が玄関まで飛び込んでくる以上は、夜になったらどんなことになるか分らないと、私はもうすっかり慴えきって、それからはなるべく自分の室に閉じ籠ることにした。気のせいだの空気の流れだのと、そんな理屈では安心がなりかねた。後からついてくる気配だけならまだよいが、いろんな姿が影のように四方に浮き出して、私の方へ飛びついてくるのは、どう考えても合点がゆかなかった。私自身の気のせいではなく、そういう煙のような奴等が、そこいらにふらふらと存在してるに違いなかった。
私は室の中に閉じ籠って、これからどうしたらよいかしらと、夢の
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング