て、一方が広い邸宅の石塀になってる処へさしかかり、菊の盃と短冊とを敵にさらわれて手にカスが残った忌々しさなどを、ぼんやり思い起しているうちに、ふと、後から誰かついて来るような気配を私は感じた。感じたのはその瞬間であるが、実は暫らく前から私について来たらしい気配だった。この夜更けに……と思って何気なく振向くと、其処には誰もいないで、点々と軒燈の光りの浮いてる淋しい通りが、突き当りまで茫とした薄闇を湛えていた。
 それから暫らくすると、また誰かが私の後をつけてくるような気配がした。振返って見ると誰もいない。そんなことを二三度繰返してるうちに、私は変に身内が薄ら寒くなってきた。そしてすたすたと足を早めたが、やはりすたすたと同じ早さで……といって足音も声もなく、ただその気配だけが風のように、私の後からついてくる。馬鹿馬鹿しいと思ったが、思うほど妙に気にかかって、もう後ろを振向くこともしかねて、益々足を早めていった。そして下宿の前まで来てほっとすると、その気配も何処かへ消え失せてしまった。私は何だか変な気持で、寝静まってるひっそりした通りを透し見て、それから、いつも引寄せたばかりで締りのしてない硝子戸を、少し慌て気味に引開け、身を入れると落付いて静かに閉め、中に垂れている白布をまくってはいった。すると真正面に、停車場で見るような大きな掛時計が、いつもの通りゆるやかに振子を振っていた。それを見て私は、先程からの怪しい気持を払い落してしまった。
 然るに、そういうことが何度も起るようになった。明るい電車通りなんかでは、さすがに一度もなかったが、淋しい裏通りを夜更けに歩いていると、何時何処でともなく、誰かが自分の後からついて来るような気配を、ふっと気付くのだった。振返ってみると誰もいない。真直に歩いていると、また誰かが風のようについて来る。殊に雨のしとしと降る晩なぞは、其奴が雨傘の中にはいって来て、すぐ側に後髪のあたりにくっついて来る。ぞーっとする気持を無理に抑えて、煙草に火でもつけると、もう何処かへ消えて無くなってしまう。
 そのうちに、私は次第にそれに馴れてきて、いろんな理由を推測し初めた。よく考えてみると、私がそれに出逢うのは、何か或る一つのことに熱中した後で、さまざまの雑念が消え失せ、思いが一つの点に集中して、疲れながらもじっと落付いている、我を忘れた而も敏感な状態に在る時だった。それで、空気の静かに淀んでいる夜更けの通りを、ふらふらと歩いてゆくと、丁度船の通った後の海上に船足の波が立つと同じく、私の後に空気の波が立って、それを私は誰かの気配だと感じたのだろう。……そう思うと、私はいくらか馬鹿馬鹿しいような安堵を覚えて、余りそれを気にすまいと努め、また実際大して気にもかからなかった。またやって来たな……というくらいの気持でいることが出来た。
 所が、その気配の方が段々進歩してきた、と云えば変だが、段々はっきりした形を取ってきた。
 或る夜一時頃、私は電車から降りて下宿へ帰っていった。その時私は可成り酔っていた。四五人の友人と馬鹿げた遊びをして、その帰りにまた珈琲店へ立寄ったので、和洋酒混合の雑然とした酔い方をして、頭の中が呆けたように茫っとなって、ただ眼だけに意識の力が集っているという状態だった。それと見て飛び乗った赤電車の中の、粗らな乗客の総毛立ったような顔や、じっと考え込んでいるらしい冷たい顔や、一方にかたまって居眠りしてる四五人の車掌の顔や、天井から下ってる宣伝ビラの赤文字や、窓硝子についている仄白い汚点など、弱々しい薄赤い電燈の光りに輝らされたさまざまの、深夜にふさわしい事物が、頭の奥に残っていて、それでもまだ何か足りない、今に何かやってくる……といったような気持が、寂然とした裏通りを透して見てる眼に集っていた。それに自ら気付いた時私は、また例のものがついて来るぞと思った。途端に、何か人の顔らしいものが、横手の暗がりから私の方を覗き込んできた。おや! と思って眼をやると、もうそれらしいものは消え失せて、垣根の上から覗き出している樫の一枝が、黒々とした影を落してるばかりだった。嚇かすなよ! という気持で四五歩進むと、此度は向うの軒下に、なにやら茫っとした人影が佇んでいる。でも私は、酔ってはいたしそんなことに馴れてもいたので、例の奴が先廻りをしたなというくらいの考えで、平気で歩いて行って、ひょいと見ると、其処には何にもなくて、六七尺ばかりの上の軒下に女中部屋らしい小窓がついていて、この夜更けに雨戸も閉めなく、木格子の中の煤けた障子の紙に、淡く電燈の光りがさしていた。私は一寸足を止めて眺めやった。すると全く思いがけなく、鬢の毛を少しほつらした女の頭が、障子にすーっと影を落して、またすーっと消えた。消えた瞬間に私はぞっと身震いをした。
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