ようなことを考えながら、昼間も曇った日はなるべく外に出ないことにし、夜分はなるべく早く床につくことにし、友人達を電話で呼び寄せては、碁や将棋をやったり花合せをしたりして、出来るだけ面白く時間をつぶそうとした。所が一人になるとふっと、魔がさすように気が滅入って、何となく電燈の光も淡くなってゆき、室の隅々に濛とした気が立罩めて、馬鹿馬鹿しい不安に襲われることがあった。そういう時私は、一生懸命机にかじりついて、面白そうな書物を読み耽った。物語の興味に惹かされて、一時間も読み続けてるうちに、一寸心に疲れた弛みが出来ると、しきりに右手の斜め上の方が気になり出した。其処に何やらぼんやりしたものがぶら下っている。宙に浮いてだらりと下っている。ふと顔を挙げて見ると、其処には何にもなくて、障子の上の鴨居よりは一尺ばかり高く、床の間の落掛《おとしがけ》が、白々とした柾目を見せてるばかりだった。天井板や柱や鴨居など、室の中の他の木口よりは比較的新しく見える、その落掛の木目から眼を滑らして、床の間の呉竹の軸物を眺め、次にまた書物の文字に見入ったが、暫くするとまたしても、右手の上の方が気になり初めた。其処に何やらぼんやり下っている。見ると何にも眼にはつかない。
そういうことを繰返してるうちに、私は妙に自分の室へも落付くことが出来なくなった。その上怪しい夢をみた。――形態の知れぬ物象が入り乱れた中から、次第に一の姿がはっきり浮び出してきた。頭髪の有様も顔も表情も着物の縞柄も、何一つはっきり見分けられはしなかったが、明かにそれは一人の若い学生だった。床の間の上に机を置き、その上に乗り背伸びをして、落掛の上の所の壁に、鉄の火箸でぐりぐりと穴をあけている。変なことをする奴だなと思って見てると、彼はやがて指先くらいの大きさの穴をあけてしまい、何処から取出してきたか、二尺余りの麻縄を穴に通し、落掛のすぐ下で輪に結び、その中に首を差入れた。危い! と思う途端に、彼はぽんと机を蹴飛ばして、そこにぶらりと下ってしまった。びくりとも動かないで、死骸になって吊されている。それが不思議にも私自身だった。いや俺じゃあないと思いながらも、やはり私自身だった。しまった! と声に出たかどうか知らないが、力限りに叫ぶ拍子に、私はふっと眼を覚した。見廻すと、覆いをした電燈の薄暗い光に照されてる室は、いつもの室と何の変りもなく、床の間にはやはり呉竹の軸が掛っており、上の落掛は白々と柾目を見せていた。その平素通りな有様が、却て妙に心をそそって、私は頭から布団を被ってしまった。長く寝つかれなくて、布団の中で幾度も寝返りをした。
翌朝遅く、朝日の光がぱっとさしてる頃に、私は眼を覚して起上った。夢のことはもう遠くへ置き忘れて、平気で朝食を済してから、晴々とした日の光がさしてるうちにと思って、気の向く方へ出歩いてみた。一寸球を突いて、午後は賑やかな大通を歩き廻り、帰りに友人の家へ寄って碁を始め、夕食の馳走にまでなったが、帰り途のことが気になり出して、まだ暮れて間もない慌しい街路を、怪しい幽気にも出逢わず、無事に下宿の室まで帰ってきた。そこでほっとして煙草を吹かしたが、私は飛び上らんばかりに驚いた。
煙草の煙がふうわりと立昇って、ゆらゆらと消えてゆくあたりに、あるかなきかの濛気が、人の姿となって、床の間の落掛から下っている。びっくりして見上げるはずみに、昨夜の夢をまざまざと思い起した。そして気がついてみると、自分の倚ってる机も火鉢の火箸も、夢の中の机や火鉢とそっくり同じものだった。ただ麻縄がないだけだったが、それも窓の外の手摺に雨曝しとなって掛ってるのを、いつか見たような気がし初めてきた。わざわざ雨戸を開けて見定めるだけの勇気も、もう私には出なかった。それどころではなかった。頭の上の落掛からぶらりと死体が下ってきた。眼をやると消え失せるが、一寸でも眼を離すとまた下ってくる。私は怪しい気持になって、比較的新しい落掛をいつまでも見つめていた。するといつのまにか自分がふらふらと立上って、其処の壁に穴をあけ、麻縄で輪を拵え、机を踏台にしてぶら下る……と思っただけでぞっとして、それが却て一種の衝動となり、蜘蛛の糸ででも縛られるように、身動きが出来なくなった。少しでも身を動かしたら、私はそこにぶら下るかも知れない……と思うせいか、もうぼんやりと落掛の所から、人の下ってる無惨な姿が見えてくる。
私は堪らなくなって、いきなり室から飛び出て、階段を駆け下りていったが、さてどうしようかと思い惑ってると、お上《かみ》さんのでっぷりした没表情な顔付が、玄関わきの障子の腰硝子から覗いていた。私はその方へ歩み寄って、前後の考えもなく尋ねかけた。
「あの室は……私の室は……何か変なことがありはしませんか。」
私の様子が変
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