っていたせいか、お上さんはいつになく顔色を変えた。
「え、何かありましたか。」
「どうもおかしいんです。私の気のせいかも知れませんが……。」
「気のせいですよ、屹度。あれから一度も変ったことはないんですから。」
調子が何だか落付かないのと、「あれから」というふと洩れた一語とが、私を其処に立竦ましてしまった。何かあったんだな、と思うと我慢しかねて、いきなりぶちまけてやった。
「実は……若い男の姿が、床の間の上からぶら下るんです。」
「え、本当ですか!」
お上さんは息をのんで堅くなった。私も同じように堅くなった。そして暫く見合っていると、お上さんはほっと溜息をついて、私を室の中に招き入れて、誰にも口外してくれるなと頼みながら、ひそひそと話してきかしたのである。
丁度五年前のやはり今時分、あの室で年若い学生が縊死を遂げた。大変勉強家のおとなしい静かな男だったが、高等学校の入学試験に失敗をして、この下宿から一年間予備校に通っていたが、翌年また失敗をして少し気が変になり、そこへまた不運なことには、この下宿にいた年増な女中からいつしか誘惑され、その女中が姙娠したことを知って、初心な気弱さの余り世を悲観して、遂に死を決したものらしい。故郷の両親へ宛てた遺書が一通見出されたけれど、ただ先立つ不孝を詫たばかりで、事情は少しも書いてなかった。その男が、床の間の上に机を踏台として、壁に火箸で穴をあけ、麻縄でぶら下って、私が夢に見た通りの死に方をしたのだった。それから半年ばかりの間、室は釘付にして誰も入れないことにしてあったが、何等変ったこともない上に、それでは却て人の注意を惹くものだから、落掛の木を新しく取り代え壁を塗り直して、やはり座敷に使うこととなった。私がはいる前に、二人ほどその室を借りた者があったけれど、何の怪しいことも起らなかったそうである。
話を聞くと、私はもう一刻もその室に戻ってゆくことが出来なかった。話を聞いてから夢をみるのなら兎に角、聞かない前に事実そっくりの夢をみたのだし、その幻がまざまざと見えたのだから、気の迷いとばかりはいえなかった。私は誰にも口外しないとお上さんに約束して、その代り他の室へ移して貰った。所が生憎、今空いてるただ一つの室は、階下の階段の奥の四畳半きりで、日当りが悪く陰気くさくて薄穢なかった。然しそんなことに躊躇してはいられなかった。明日から大倹約をしなければならないと、冗談のように女中達へ云いながら、心ではびくびくしながら、私はその晩すぐに荷物を運び移して貰った。そして一通りざっと片付けておいて、それでももう十二時近くなって、狭苦しい思いで床にはいった。眼が冴えて眠れなかった。どうしても落付けなかった。誰も知らないが、また知っていても知らない顔をしてるが、あの室にだってあんな恐ろしいことがあったとすれば、この室にだってどんなことがあったかも知れない……などと考えてくると、益々眼が冴えていった。
そして私は、またいろんな幻を見た。嘗てこの室で起ったろうさまざまなことが、次から次へと現われてきた。貧しい肺病やみの学生が、血反吐《ちへど》をはいてのたうち廻っていた。酒に酔った不良性の男が、美しい女中を引張り込んで獣慾を遂げていた。凶器を手にした盗人が、窓の戸をこじあけて覗き込んでいた。其他さまざまの人の姿が、湿気を帯びた黴臭い室の空気の中に、茫とした気配に浮出して、四方から私の方を覗き込んでき、私の身体にとっつこうとする。私は首と手足とを縮こめて、蒲団の中に円くなり、もう寝返りをするのも恐ろしくて、じっと夜明けを待ちながら、自分の呼気で自分を中毒さして眠ろうと努めた。
そして翌日になったが、いつまでも日の光がさして来なかった。陰欝などんよりとした曇り日らしい明るみが、窓の雨戸の隙間から忍び込んでいたけれど、いつまで待っても同じ茫とした明るみだった。私は思い切って起き上ってみた。驚いたことにはもう十時を過ぎていた。顔を洗って冷たい食事を済したが、北に窓がついてるきりの室の中には、隅々に薄暗い影が漂っていて、何かぼんやりつっ立ってるような気配だった。私はじっとしてることが出来ずに、何処という当もなく、外出しかけた。お上さんが玄関へ出て来て、どうでしたかというような眼付を見せたが、私は眼を外らして答えないで、ぷいと表に飛び出した。
雲ともいえない靄みたいなものが、空低く一面に蔽い被さっていて、空気が重くどんよりと淀んでいた。寂しい裏通りのそこいらの影から、彼奴らがふらふらと浮び出てくるのに、最もふさわしい天気だった。私は薄ら寒いおののきを身内に感じながら、何処へ行こうかと思い惑った。
こんな時には、酒でも飲んで気を紛らすのが一番よかった。然しそれには時間も早かったし、また恐ろしい記憶が頭に蘇ってきた。彼奴
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