い群集の好奇心から来たものなのか、或は、自分より幾倍も強そうな相手の男の腕っ節から来たものなのか、或は、人だかりのしてる街路のざわめいた物影から来たものなのか、何れとも分らなかったが、兎に角それがどっしりと彼の心へのしかかってきた。彼は無理にそれをはねのけようとする気で、我を忘れて一二歩進み出た。
「何だ貴様は、横合から飛び出してきて、失敬な、其処を退け!」
「何を! も一度云ってみろ。馬鹿!」と男は頭から怒鳴りつけた。「乗り降りの客の邪魔をしといて、おまけに車内で煙草を吸おうとしたくせに、あべこべに車掌へねじこんでいったのは、皆が見てる通りだ。生意気な風をしといて、酒のせいだとは云わせないぞ。逃げたければ、車掌に謝った上で逃げ失せろ。謝るまでは其処を一寸《いっすん》も動かさぬから、そう思っとるがいい。……おい車掌は何処へ行ったんだ?」
然しその時木原藤次は、も一人の車掌と運転手とに何やら囁かれて、もう電車に乗ってしまっていた。そして、好奇心に駆られてる数名の乗客を残したまま、電車を走らせ初めた。それを麦藁帽の男は見送って、呆気に取られたように佇んだ。
野口昌作は殆んど本能的に、その隙《すき》に乗じた。
「見ろ、間抜め! 貴様なんかを相手にする奴があるものか。」
云い捨てて彼は、二三歩其処を遠退きかけた。
男はその声にぎくりとして向き返ったが、横風に歩き出してる野口昌作の横顔を見ると、太い眉根を震わして両の拳を握りしめた。野口昌作はその気配を感じて、一寸足を止めながら、ちらと横目を注いだ。
「待て!」と男は叫んだ。
声の調子の真剣なのに気を打たれて、野口昌作は其処に立止ったが、相手の一喝にひるんだ自分自身を、無理に引立てるようにかっと唾を吐いて、また一歩足を踏み出した。瞬間に、唾を吐いたのはいけなかったと思うと同時に、右肩を掴まれたのを感じた。
「何をするんだ!」
思わず声が先に出て、そのために我を忘れて、右の靴先で相手の向う脛を蹴りつけてやろうとした。その足先が空に流れた途端、彼はがーんと左の横面に拳固の一撃を受けた。眼がくらくらとして、ほんの一瞬の間、白い歯をむき出してる小さな人の顔が見えた。おやと思って立直ると、すぐ眼の前に、白い服と劒の鞘とがあった。
「まあお待ちなさい。」
二度目の拳固を振上げた男の腕を、巡査が支え止めていた。
そして三人は、麦藁帽の男は野口昌作を睥みつめ、野口昌作は巡査を惘然と眺め、巡査は麦藁帽の男を見上げながら、一二秒の間そのまま立ちつくした。
野口昌作を殴りつけた、麦藁帽に浴衣がけのこの正義派は、城北中学校柔道師範、講道館二段の免許を有する、高倉玄蔵という三十歳に満たない青年だった。その城北中学に、年老いた漢文の教師がいた。頭は古くて偏狭だったが、自分に信ずることは一歩もまげないという、清廉硬骨の老人だった。新しく校長となった文学士と、いつも折合が悪かった。そして何処からともなく、学期が済んで休暇になり次第免職されるという噂が、確かな根拠もなく伝わっていった。その噂に人一倍憤慨したのは、老教師の人格を尊敬している高倉玄蔵だった。彼は学校で噂をちらと耳にしてから、夕食の折五六杯の酒に赤くなりながら、人の善い細君を相手に悲憤慷慨した。そして細君の同感ではなお物足りなくて、退職将校で体操の教師をしている同僚の家を訪れ、二人で大に校風の頽廃を論じ合った。然し結局の所、漢文の老教師の免職云々は、単なる噂に過ぎなくて、それについての対策を立てるなどは、早計な馬鹿げたことであるばかりでなく、直接自分と関係のない余計なことに思われてきた。彼は充ち足りない心を懐いて帰ってきた。自分自身が軽率で愚かであるような気もした。そしてまたその反動として、或る漠然たる正義観念で胸が脹れ上った。電車の中にどっしりと腰を下して、両肱を膝の上に張りながら、世風を慨するといった眼付で、自分の愚かさを自らごまかす気味も加わって、あたりを睥め廻していたのである。そこへ、野口昌作と車掌との事件が起ってきた。
高倉玄蔵にとって第一気に喰わなかったことは、野口昌作の才走った屁理屈だった。次に気に喰わなかったのは、人造絹のネクタイに光ってる、彼のネクタイピンだった。新月形の金に星を象《かたど》ったダイヤを加えてる、いやに女々しい趣味のものだった。それにちらと眼を留めた時から、彼の正義観念は反感の色に染められていった。我慢出来なくて遂に野口昌作を突き降してしまった。そして勝利の念で一杯になってる時、電車と車掌とに逃げられてしまい、惘然とした瞬間から我に返ると、もうそのままでは自分の体面が保てない気がして、その上腕がむずむずしてきて、思うさま相手を引叩いてやった。ただ不幸なことには、野口昌作の方が先に蹴りつけようとしたことを、彼は不覚にも気付かなかった。そして巡査から腕を支え止められて、一寸弁解の辞に窮した。
「乱暴はお止しなさい。」と巡査はきっぱり云った。
高倉玄蔵はおとなしく手を下したが、まだぼんやりつっ立ってる野口昌作の方を顧みて云った。
「貴様のような卑劣な奴には、鉄拳が相当しとるんだ。」
「まあいいです。」と巡査は彼を制した。「穏かに話せば分ることでしょう。一体どうしたのですか。」
高倉玄蔵はその時、巡査がまだ何も知らないでいることを見て取った。そして自分の行為を弁護する口実を見出した気で、初めからのことを説明した。所が車掌に逃げられたあたりになって、ひどくまごついてしまった。それをむりやりに云い進んだ。
「車掌を引留めておいては、他の乗客の迷惑になると思って、すぐに発車さしてやった。所がこの男まで一緒になって逃げようとするから、引据えたのだ。」
「嘘を云え。」と野口昌作は俄に元気づいたかのように、初めて口を開いた。「貴様は車掌を取逃した口惜しまぎれに、俺を殴ったのだ。車掌の方も悪い点があるからこそ、逃げ出してしまったじゃないか。さあ貴様は、俺に無法な拳をあてておいて、この始末は何とする? 謝罪しろ、すぐに謝罪しろ。」
「まあ静になさい。」と巡査は言った。
「いやこのままで済せるものか。人の頭を殴っておいて、一言の挨拶もなしに、それでよいかどうか、考えてみ給え。君で分らなければ、警察に同行するまでのことだ。……おい、何とか云ってみろ。何で黙りこくってるんだ。」
そして彼は、高倉玄蔵の方へつめ寄って行った。
高倉玄蔵は、車掌の逃亡をうまく云いくるめられて、太い眉根をぴくぴくさしていたが、今相手につめ寄って来られると、我を忘れてまた右手を振上げた。それを巡査に支えられた瞬間、彼は左手を差伸して、野口昌作の襟に手先がかかるや否や、ぱっと足払いにいった。それが見事にきまって、野口昌作は仰向にひっくり返った。
「暴行をするな。」と巡査は叫んだ。
「何が暴行だ?」と高倉玄蔵は鸚鵡返しにした。「こんな奴はひどく懲らしめておくが至当だ。こういう軽薄な屁理屈屋がのさばるから、世の中が害される。貴様まで此奴に瞞着されて、それで警官が務まると思っとるのか。顔を洗って出直して来い。」
巡査はぐいと彼の手首を捉えた。
「暴行を働いた上に暴言を吐くのか。よし、本署まで同行するから、一緒に来い。」
「なに、俺を警察へ……行ってやるとも。後で後悔するな。さあ来い。」
そして高倉玄蔵は、先に立って一歩ふみ出したが、その時、群集の中からちらと、見覚えのある顔が見えたような気がした。で足を止めて、周囲に立並んでる人垣を、じろりと見廻したが、もうそれらしい顔も見当らなかった。けれども、そのことが彼の頭に一片の思慮を送った。この群集の中に、学校の生徒などが交ってるかも知れない、と思ったのをきっかけに、学校……教職……体面……などということが浮んできて、警察に引かれるという汚名が、はたと胸にきた。進退に窮した形で、其処にじっと佇んだ。
「何を愚図ついているのだ?」と巡査は促した。
それを高倉玄蔵は耳にも入れなかった。地面に眸を据えたまま、暫く考え込んだ。とふいによい考えが浮んだ。相手の男を同行しさえすれば、自分の名分は立つ訳だ。
「此奴も一緒に引張って行って貰おう。」と彼は云った。
「無論だ。」と巡査は応じた。
そして二人は、其処に起き上ってつっ立ってる筈の野口昌作の方へ向き返った。所が其処には誰もいなかった。見廻しても姿さえ見えなかった。二人は茫然とした。
「逃げちまったよ。」と群集の中から誰かが云った。続いて笑い声もした。
その嘲るような調子に、殊にぐいと胸を突かれたのは、巡査の方だった。
福坂警察署所属巡査、沼田英吉は、その日殊に心配があった。四五日前から子供が発熱して、毎日三十九度以上の高熱が続いた。医者は何の病気とも断定しかねた。そしていろんな徴候からして、時節柄チブスの疑いがあった。それを聞いた時、沼田英吉はひどく困却した。もし本当にチブスだとすれば、他の二人の子供にも感染する恐れがあるし、殊に病児の看護をしてる妻にはその恐れが多いし、そのために貧しい一家の生活が破綻するのは、眼に見るように明らかだった。そればかりではなく、いやしくも町内の衛生をも監督する地位にある警官の家から、伝染病患者を出したとあっては、署の人々へは勿論近所の人達へも、顔向けが出来ないような気がした。そして病児がチブスであるかどうかは、その日のうちに決定する筈だった。妻が子供の便と尿とを、朝のうちに医者へ届けた筈だから、午頃までには、遅くも夕方までには、検査の結果が明かになる筈だった。彼はその結果が分るまで、その日一日欠勤しようかと思った。然し、今迄精勤の評を取ってる名前を汚したくもなかったし、一意忠勤の精神に背きたくもなかったので、勇を鼓して出勤した。チブスときまったら、すぐ妻から知らしてくる手筈だった。その知らせを彼は、びくびくしながら待っていた。所が夕方になって、悪い廻り合せには、その日俄に署員の不足を来したとかで、半夜の警戒をも命ぜられてしまった。彼は元気よく命を奉じたものの、交番の前に立つと、じっとして居られないように心が騒いできた。子供の病気がチブスであるかどうか、という苛立たしい思いが一つ、果してチブスだった場合には、自分の体面のために医者へ頼んで隠蔽して貰うべきか、或は万事を犠牲にして規則通りに処置すべきか、という公私の間の去就に迷った思いが一つ、その二つが頭の中で煮えくり返った。そのうちに時間は過ぎていった。そして高倉玄蔵と野口昌作との喧嘩に出合ったのだった。
初め彼は、出来るだけ温和な態度で臨んで、二人を無事に和解させるつもりだった。所が、顔に浮べようとする微笑や強いて装おうとするやさしい声の調子などは、朝からの焦慮と疲労とのために、中途で変にぎごちなく凍りついてしまった。その方へ気を取られてるまに、二人の争論はなお続いてゆき、一度目の暴行が起った。彼はいつになく落付を失った。高倉玄蔵から罵られて、自分でも不思議なほどかっとなった。それから野口昌作に逃げられて、群集の中からの嘲りに出逢うと、彼は片手に佩剣の柄を握りしめた。それでもすぐには口が利けなかった。そこを相手の方から先んぜられた。
「あの男が居なくなった以上は、僕一人警察へ行く義務はない。これで失敬する。」
そして高倉玄蔵は二足三足歩きだした。その手首を、沼田英吉はまた捉えた。
「兎も角も、本署へ同行して貰いましょう。」
「馬鹿なことを云うな。俺一人行って何にするのか。あの男を探し出して来給え。あの男と一緒ならいつでも行ってやる。取逃がしたのは君の責任ではないか。さあ捕えて来給え。俺は此処にこうして、逃げも隠れもしないで待っていてやる。俺一人を引張っていって、俺に責任を塗りつけようとしても、そうはいかないぞ。」
「然し君は兎に角、暴行を働いた本人だから、本署まで同行するのが当然だ。本署へ行った上で、云いたいことがあったら云うがいい。」
そして沼田英吉は彼を引立てようとした。その手先を彼は払いのけた。
「あくまでも君は手向うのか。」と云って沼田英吉は相手の顔
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