を見据えた。
 先刻から沼田英吉は、相手の男のうちに、一種の犯罪性を嗅ぎつけてるのだった。も一人の男を取逃した失態から、俄に警官としての自分の立場を、はっきりしすぎるくらいに自覚して、そのために、警官としての眼だけが、鋭く光り出したのである。その眼は一種の拡大鏡に似ていた。高倉玄蔵の、露わな胸元の黒い毛、太い指先、少し縮れ加減の耳朶、口元の一寸したたるみ、そして何よりも、じっと見据えたように、いやに執拗な意図と困惑の色とが籠ってること……などから彼は、誰にでもあるくらいの犯罪性を、大袈裟に抽出して、それで相手の男を批判した。大なる犯罪は持っていなくとも、何等かの尻尾《しっぽ》を出させ得るものと思った。それがせめてもの腹癒せだった。相手が逃げようとすればするほど、彼はしつこく絡んでいった。
「本署へ同行を拒む以上は、君自身の心に後ろ暗いことがあるのだろう。後ろ暗いことがなければ、一緒に来るがいい。兎に角君は、公衆の面前で暴行を働いたのだから、このまま見過しては治安を害する。警官としての僕の職分も全うしないことになるのだ。君に罪がなければ即時に放免してやる。一緒に来給え。」
 高倉玄蔵はじっと唇をむすんで、びくとも動かなかった。その肥大な体躯の中で、何等かの決意に迷っているらしかった。その様子を眺めて、沼田英吉は何かしらぎくりとしたが、さあらぬ風に嘯いて、相手の言葉を待受けた。
 三秒四秒と、緊張した沈黙が引続いた。群集は益々ふえて、片唾をのんで待受けていた。後ろの方でひそひそと囁く声が、その不安な空気を更に濃厚にした。
 然るに、意外なことで沈黙が破られた。群集の中から、パナマ帽を目深に被り、仕立下しの薄茶色の洋服をつけ、握り太のステッキを手にした、可なりの年配の男が、つかつかと出て来て、二人の前に立止った。
「もうどちらもいい加減にしたらどうだい。おとなしく別れてしまった方が得策じゃあないか。」
 声の調子がいやに落付いているので、沼田英吉は一歩退って、その様子を見調べた。
「君の職務上の考慮も充分に分っているが、」と男は云い進んだ、「何しろも一人の男も逃げてしまったそうだし、まあこれくらいにしておいたらいいだろう。僕に免じて此処のところは引取ってくれ給え。」
 そうして彼はポケットの紙入から名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]を取出して、沼田英吉に手渡しした。
 沼田英吉は不審そうにそれを受取って、相手の顔から名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]へ眼を落した。名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]には太い活字で東京地方裁判所検事安藤竜太郎、と刷り込んであった。
 沼田英吉は思わずはっと姿勢を直した。

 沼田巡査までが名前を聞き知っている、地方裁判所での上席検事安藤竜太郎は、その日公判の論告をやったのだった。情夫殺しとして新聞に書き立てられた、某美人に就てのものだった。彼はその予審調書によって、充分情状酌量の余地あることを見て取って、可なり寛大な論告草稿を拵えておいた。所が、公判廷で見た被告の横顔によって、どうした感情からか、昔の自分の恋人を思い出したのである。今迄嘗てなかったことではあるし、神聖なる法廷に於てのことなので、自分でも意外だったが、変にその方へ感情が引かされてゆき、憎悪の眼が被告の方へ引かれていって、どうにも仕方なくなった。彼の今の出世も、昔苦学をしていた頃その恋人に捨てられた後の、発奮の賜物ではあったけれど、そのまま怨恨だけが胸の奥に巣喰ってたものらしい。それが突然顔を出してきて、彼の論告をめちゃめちゃにした。彼は酌量すべき情状の方を飛び越して、代りに一般道徳論を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入し、その峻烈な而も何処か辻褄の合わない論告を、重い求刑の言葉で結んだ。可なり意外な空気が法廷に漂った。そして彼自身が最もその空気を鋭敏に感じた。彼は法廷を出ると、悪夢からさめたようにほっとした。昔の恋人の幻が消えて、失策をしたという意識だけが残った。それを今後の立論で補うことにして、一先ず理知的の落付きは得たが、当座の心の落付きがどうも得られなかった。裁判所の室で遅くまで時間を過し、それから銀座の方を歩き廻った。そしてるうちに、不思議な――然し彼にとっては至って自然な――方向へ心が向いてきた。何かしら人間間のごたごたした諍《いさか》いを止めさして、互に手に手を握り合わせるようなことを、自分の力でしてみたくなった。温和な論告をした後には峻厳な心持になり、峻厳な論告をした後には温和な心持になるのが彼のいつもの心理だった。そして今彼は、温厚な君子然とした心持を懐いて、高倉玄蔵と沼田英吉との対抗に出逢ったのである。二人の和解を欲する余りに、相手や場所柄をも顧慮せず、自分の名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]をさしつけてしまった。
「万事穏便に計らった方が、皆のためになるというものだよ。」と彼は云った。
「は!」と沼田英吉は棒立になったまま答えた。
「僕は福坂署の署長とは懇意にしているから、君のこともよく話してあげよう。君の職務怠慢とはならないように、僕が一切の責任を帯びるよ。そして、君の名前は?」
 沼田英吉は一寸たじろいだ。そして暫く考えていたが、何と思ったかいきなり頭を下げた。
「名前だけは容捨して頂きます。」
 安藤竜太郎は微笑を浮べた。そして相手の肩を心地よげに叩いて云った。
「心配することはないよ、君。云いたくなければ、僕も寧ろ聞かない方が望みなんだ。では、これで引取ってくれるね。」
「はい。あなたがそう仰言るならば引取ります。」
 それでも彼はまた一応、高倉玄蔵の方をじろりと見やった。安藤竜太郎はその視線を辿って、高倉玄蔵の方へ向き直った。
「君も余り強情を張らない方がいいでしょう。兎に角腕力沙汰は控えたが宜しいですよ。相手がどんな怪我をするか分りませんからね。」
 高倉玄蔵はすっかり悄気《しょげ》かえった風で、黙って首垂《うなだ》れていた。安藤竜太郎はそれを眺め、次に眼を転じて、もう落付いてる沼田英吉の顔色を眺め、それから、静かな群集を一わたり見廻して、或る擽ったいような得意の念を覚えた。そして頭を軽く動かして、独り自分の胸にうなずいた。何をだかは彼自身にも分らなかったが、そうすることによって、漠然とした安逸な肯定感が胸にしっくり納ったのである。
 そこで彼は一寸口髯の先をひねって、快い微笑を浮べながら、誰にともなく云った。
「じゃあ、これで失敬。」
 然し彼の心は、「御機嫌よう」と云っていた。それを彼は胸に抱きしめて、一寸間を置いて、三四歩進みだした。
 その時、何処からともなく可なり大きな石が飛んできて、身を反らし加減にしている彼の、右の鎖骨の所へはっしと中《あた》った。
「あっ!」と彼は思わず声を立てて、鎖骨の上を掌で押えた。

 石を投ったのは、下宿屋の息子の今年十六歳になる、矢野浩一という不良少年だった。彼はその時、佐伯三千子という、やはり同年配の不良少女と連立っていた。
 矢野浩一は以前から、佐伯三千子に心惹かされていた。然し彼は、仲間同志の男女関係を余り喜ばない、彼等の間の風潮を恐れ、また自分のニキビ顔を気にして、露骨に云い寄ることをしなかった。然るに内々探りをかけてみると、向うでも多少こちらに気のあるという、自惚の念が湧いてきた。そして機会ある毎に二人きりになる方法を講じた。その晩も丁度彼は三千子と落合って、二人で活動写真を見にいった。息をつめて腰掛に蹲っていると、彼女の温みが伝わってきた。しまいには我慢しかねて、彼女の手をそっと握った。彼女は暫くじっとしていたが、やがてその手先を振り払った。彼はすっかり面喰った。そして更に困ったことは、彼女は写真の終るのを待たないで、面白くないから出ようと云い出した。彼はすごすごと後にしたがった。それから街路を、何処へともなく歩いてるうちに、彼は変に胸苦しくなってきて、丁度一人で彼女のことを思い耽ってる時と、同じような心地になった。そして堪えきれなくなって、そっと云い出してみた。
「怒ってるの。」
「何を!」
 振向きもせず答え返して、彼女はつんと歩いていった。
「僕があんなことをしたからさ。」
「どんなこと?」
 彼はぷっぷっと唾を吐いた。それを横目にちらと見やって、彼女はくすくす笑い出した。
「何を笑ってるんだい!」
「怒ってるの。」と此度は彼女の方から尋ねかけてきた。
「白ばっくれるのもいい加減にしろよ。」
「あら、どちらが白ばっくれてるかしら?」
「君の方さ。」
「御自分じゃあないの。人の手を握ったりなんかして……。」
「だからそのことを云ってるんだよ。」
「私大嫌い、あんなでれでれした真似は!」
「おい三千《みっ》ちゃん、本気で云ってるのかい。それじゃあ君は、僕が嫌なんだね。」
「嫌じゃあないわ。」
「じゃあどうしたんだい。僕は真面目なんだよ。ねえ、僕のスイートになってくれない。仲よしでもいいや。本当に僕は一生懸命に想ってるんだよ。君のためなら何でもするよ。監獄にはいったって構やしない。しろと云えばすぐにするよ。ねえ、いいだろう。」
「よかったり悪かったり……。」と彼女は歌うような調子で云った。
「じゃあ勝手にしろ。知るもんか。」と彼は怒った風を見せた。
「怒らなくってもいいわよ。……だから二人で歩いてるじゃないの。」
「歩いてたって何になるもんか。」
 むりに脹らました彼の頬を、彼女は人差指でつっ突いた。そのために彼はぷっと放笑《ふきだ》してしまった。
 そんな風な話をしながら歩いてるうちに、二人は人だかりに出逢ったのだった。そして矢野浩一は、三千子を従えながら、野口昌作と高倉玄蔵との喧嘩のあたりから、終りまでを見物してしまった。高倉がすっぱりと足払いで野口を投げ倒した時、彼は思わず手を叩こうとする所だった。沼田巡査には初めから反感を懐いた。「逃げちまったよ」と云ったのも彼だった。それから、高倉が大きい図体をしながら、沼田の前にいやに悄気返っているのを見て、歯がゆくて堪らなかった。所が安藤が出て来て、いやに横柄な口の利き方をするのが、少し癪に障ってき、沼田に対する反感が、安藤の方へ向いていった。そればかりならばまだよかったが、安藤が沼田の肩を馴々しく叩いた頃から、中の三人には分らなかったけれど、群集の中に、殊に後ろの方に、一種の乱れが起ってきた。
 初めは殆んど感じられないほどの、何かの気配《けはい》だったが、人々の息を凝らした沈黙やひそかな耳語が、その気配のうちに巻き込まれていって、やがて無音の大きなざわめきを作った。知らず識らず皆の気分が、そのざわめきに煽られて、一つの不安を撚りをかけられた。不満とも鬱憤ともつかない、また期待の念ともつかない、何かしらじりじりした、自から動き出そうとするものだった。それが、安藤竜太郎の言行から、じかに糸を引いていた。彼が得意の微笑を浮べて、傲然と一人うなずいた頃、不安な気配は一層高まってきた。
 各人が我を忘れた無言のうちにありながら、群集全体として何かを感ずるそういう気分に、最も敏感だったのは、群集に馴れ親しんでいる矢野浩一だった。彼はその気分を感ずると共に、またその気分から感染されていった。そして胸をどきつかせながら、安藤竜太郎の一挙一動を、前に立並んでる人々の隙間から、宛も節穴からでも覗くようにして見守っていた。安藤竜太郎が最後の言葉を発した時、群集の一団の気分は、そのまま挫けるか破裂するかの、頂点に達した。然し破裂することはなかなか容易ではない。ましてこんな小事件だったので、安藤竜太郎が一寸間を置いたまに、もうしなしなと崩れだして、彼が一歩足をふみ出した時には、その下に踏み潰されて、引いてゆく波のような擾乱を作った。矢野浩一はその打撃がひどく胸にこたえた。云い知れぬ憤懣の念にわくわくしながら、あたりを見廻すと、自分と同じ感情に浸っているらしい、三千子の専心した眼付に出逢った。それが非常な力となった。「やっつけてやるよ、」と彼女の耳に口をあてて囁きな
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