電車停留場
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)干乾《ひから》びて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入
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七月の中旬、午後からの曇り空が、降るともなく晴れるともなく、そのまま薄らいで干乾《ひから》びてゆき、軽い風がぱったりと止んで、いやに蒸し暑い晩の、九時頃のことだった。満員とまではゆかなくとも、可なり客の込んでいる一台の電車が、賑やかな大通りをぬけて、街灯のまばらな終点の方へと、速力を早めて走っていた。車掌木原藤次は、自分の職務にさして気乗りがしているでもなく、さりとて屈託しているでもなく、気のない眼付で乗客や街路を眺めながら、低い声で停留場の名を呼び上げていった。今彼の心に懸ってるものは何もなかった。故郷の田舎に鋤鍬を執って働いてる、父や兄夫婦などのことも、二十七歳にしてまだ家を成さず、合宿所に起臥してる自分の身の上のことも、今日のことも明日のことも、凡て意識の外に投り出して、ただ勤務時間が終って休息が得られる時のことを、待つというほどではなく、向うから自然とやってくるのに、ぼんやり思いを走せているのだった。
その時、先刻から車掌台の横手につかまって、車の動揺にふらふらと身を任せながら、客の乗降《のりおり》の邪魔となってる洋服の男が、彼の眼に止った。パナマの帽子を被り、ネクタイピンを光らし、片手で窓際の鉄棒につかまり、片手を麻のズボンのポケットにつき込み、赤の短靴の先を鼻唄の調子でも取るような風に動かし、時々ふーっと酒臭い息を吐いてる、会社員風の中年の男だった。それが三度ばかり、客の乗降の邪魔となって、それでもなお其処を動きそうにないのを見て、木原藤次は、別に何ということもなく、長い間の習慣から、機械的に声をかけてみた。
「中の方に願います。」
洋服の男はちらと振向いたが、ふふんと空嘯いた顔付で、また向うを向いてしまった。
それが一寸木原藤次の気にさわった。次の停留場で、大きな行李を背負った小僧が降りようとした時、彼はその行李に手を添えてやる風を装いながら、それを洋服の男の背中の方へぐいと押しやった。そして次に、二三人の客が乗ってくる時、彼は一寸男の肩へ手をやって、押し加減にしながら云った。
「中の方が空いていますから、中へ願います。」
瞬間に、男はひどく大きな声を立てた。
「馬鹿にするない。ここだって空いてるじゃないか。」
木原藤次は、彼のその威猛高な見幕によりも、事の意外なのに喫驚して、その喫驚した自分の心を立直すために、「お早く願います、」と乗客の方へ云い捨てておいて、運転手への相図の鈴《ベル》の綱をやけに引張った。そして電車が動き出してから、じいっと洋服の男の方へ眼を向けた。酒に酔った赤黒いその横顔が、自分を嘲ってるように思い做された。
「車掌台に乗るのは規則違犯ですから、中の方へお願いします。」
「何が規則違犯だ!」と男はまた怒鳴り返えした。「満員の時は乗せるじゃないか。規則規則って、いやに鹿爪らしいことを云うない。」
そうなると木原藤次は、自分の職務をはっきりと身内に感じてきた。その上、乗降口と反対の方の車掌台に立っている二三人と、車内の吊革にぶら下ってる人々とから、物珍らしげな視線が一時に集ってきた。もうそのまま引込むわけにゆかなかった。
「規則は規則です。」と彼は云った。「中が一杯なら兎に角、中があいてるから、中へはいって下さらなければ困ります。其処に立っていられちゃあ、乗り降りの邪魔になるじゃありませんか。」
「どこが邪魔になるんだ?」と云って洋服の男は一方に身を寄せた。「こうしていりゃあ、いくらでも通れるじゃないか。通ってみろ、さあどこが邪魔になるんだ? 生意気な、人の肩を小突きやがって! 車掌なら車掌らしく、もっとおとなしくしろ。それで車掌の役目が務まると思ってるのか、馬鹿っ!」
そして彼は変に引歪めた顔を、相手の方へ近寄せてきた。
木原藤次は思わず一歩後に退《しざ》った。そして男の様子をじろじろ見調べながら云った。
「不服なら降りて貰いましょう。」
「何だと、もう一度云ってみろ! 何処まで乗ろうと俺の勝手だ。不当に乗車を拒むなら、俺にも考えがある。肩を小突いた上に、降りろとは何だ。少しは人間らしい口を利け。」
木原藤次は顔を外向けて、痩我慢の苦笑を洩らした。相手にとって悪い男だと思ったのである。そしてまだだいぶ間のある次の停留場の名を、声高に呼び上げておいて、こちらを向いてる多くの視線に答える心持で、独り呟いた。
「仕様のない酔っ払いだ。」
それを洋服の男は聞き咎めた。
「俺を酔っ払いだと云ったな。どこが酔っ払ってるんだ? さあ云ってみろ。車掌のくせに人を何だと思ってる! 馬鹿っ! どこが酔っ払ってるか、はっきり云ってみろ。」
そして彼は足をとんとんと踏み鳴らした。
「静にして貰いましょう、仕事の邪魔になるから。」木原藤次はつとめて落付けた調子で云った。「不服があるなら監督を呼びますから、監督に談じて下さい。」
「なに、監督を呼ぶ! 呼んでこい。さあいつでも呼んでこい。貴様の名前は何と云うんだ? このままじゃあ承知しないぞ。」
それから彼がまだ弁舌り立てようとするのを、木原藤次は怒りを押えた眼付でじっと眺めた。このまま黙っていれば、自分の不甲斐なさを衆人の前に曝すことになるし、喧嘩をすれば、事が面倒になって結局損をするばかりだし、うっかり云い出した通りに、監督を呼ぶとすれば、車掌としての自分の無能を認められることになるし、はてどうしたものかと思い惑った。所が偶然、鬱憤を晴すべき機会がやってきた。
洋服の男は。監督という言葉を聞いて、いきり立って肩を聳かしたが、それから俄に口を噤んで、その口許にせせら笑いを浮べ、片手でポケットを探って、敷島を一本取り出した。木原藤次はここぞと思った。そして機会を遁すまいとあせって、すぐ大声につっ込んでいった。
「煙草はいけません。」
男ははっとした様子で、口へ持って行こうとした手先を胸の所で止め、黒ずんだ眼を一寸見据えたが、俄に反り身になって、煙草を車掌の鼻先へ差出した。
「煙草が何でいけないんだ?」
「車内では禁じてあります。」
「馬鹿云え!」と男は一喝した。「禁じてあるのは喫煙だ。煙草を持つことがどこに禁じてある? 貴様の眼は何処についてるんだ? さあ云ってみろ、俺がいつ煙草を吸ったか。よく眼を開けて物を云え。火もついていない煙草を、どうして吸えるんだ。それとも、煙草を手に持ってはいけないと云うのか。どうだ、返辞をしてみろ!」
木原藤次は自分の早まった言葉を悔いたが、それよりも、相手の執拗な態度に腹を立てた。今に見ろ! という思いで唇を噛みしめながら、男の方に向き直った。が、その時、電車は停留場に停った。男はまだ煙草を持った片手を差伸していた。木原藤次はそれをじっと睥まえた。そして二人のために、五六人の客が降り道を塞がれて、車の出口に立ったまま事の成り行きを見守った。
敷島を持った片手を車掌にさしつけて、五六人の客が降りるのを堰き止めている、この洋服の男は、極東交易商会に勤めてる野口昌作というのだった。株式会社ではあるが殆んど個人経営とも云ってよい、その小さな商会内で、彼は社長から重用せられてる敏腕家だった。ただ欠点としては、酒の上が悪くて怒りっぽかった。そのために社長からも屡々訓戒されたが、また自分でもその欠点をよく知っていたが、やはり癖は直らなかった。そして此度、商売上の用件旁視察をかねて、アメリカへ社員が一人行くことになったについて、地位から云っても、腕前から云っても、自分がその選に当ることと彼はひそかに期待してた所、社長は彼の酒癖を顧慮して、他の温厚な社員を選んでしまった。その内輪だけの送別会から、彼は今戻り途に在るのだった。
会へ出かける時彼は、「今晩遅くなるかも知れない。」と細君へ云い置いてきた。その胎の底では、二次会で思うさま飲んでやるつもりだった。所が会が果ててから、誰も二次会を云い出す者がなかったし、彼が首唱しても、賛成する者がなかった。表面には少しも現わさなかったけれど、内々不平の念でしきりに煽った酒が、悪く頭にまわって、何だかじっとしておれなくなった彼は、帰りに二三の同僚を誘って、何処かへぐれ込むつもりだったのに、どうしたことか変に帰り後れて、一人ぽつりと往来に取残されてしまった。そして半ば自棄気味《やけぎみ》に、一人で飲んで騒いでやれと考えて、それでもなお念のために、懐中を一応調べてみると、七八円の金しか残っていなかった。細君がまた例の手段で、紙入の中を勝手に処分したのに違いなかった。彼は眉根をしかめて舌打ちしたが、持ち合せの不足くらいどうにでもなる、懇意な家へ行ってみようと、少し遠いのを我慢して、電車の停留場の方へ歩き出した。その時、思ったより酔ってる足がふらふらとして、前のめりに、いやというほど電柱へぶつかった。パナマの帽子越しに頭ががーんとして、眼の前が暗くなった。もう何もかも嫌になってしまった。何ということもなく方向を変えて、真直に家の方へ帰りかけた。
所が電車の中で、こんなに早く細君の前へのこのこ帰ってゆく自分自身が、馬鹿げて気の利かない者のように思われ出した。気が利かないと云えば、紙入の中をごまかした細君も、アメリカへ自分をやらない社長も、今日のつまらない送別会も、二次会をしない同僚等も、一杯込んでる電車も、何もかも気が利かなかった。そしてまたそれらのものが、彼自身を猶更気の利かないものに思わせるのだった。彼は忌々しい気持を眼付に籠めて、街路の有様を見送っていった。そこへ、車掌から言葉をかけられ、小僧が背負ってる行李の角で背中を突つかれ、車掌から肩を押され、ぐっと癪に障って、持ち前の酒癖も手伝って、腹立ちまぎれの気分がねっとりと車掌の方へ絡んでゆき、更に乗客等の視線から煽られて、引くに引かれぬ破目に陥いっていった。それを自らごまかす気もあって、かさに掛って怒鳴り立ててるうちに、監督という一寸面倒くさい言葉から、度を失いかけたのを取返すために、煙草の失態を仕出来してしまった。それはどうにか切りぬけたが、車掌からいやに真剣な眼付で見つめられ、差出した煙草の処置に困って、降り道に迷ってる五六人の乗客等の方を、じろりと見廻してみた。
その時、ずらりと立並んで重り合ってる人々の中から、麦藁帽に浴衣がけの、背の高い肩幅の広い男が、ぬっと出て来て、いきなり彼野口昌作の肩を引掴んだ。
「ふざけるな、降りちまえ!」と男は底力のある大声で怒鳴って、首を車掌の方へ振向けた。「君は正直に職務を執行しとるんだろう。規則通りに注意してやっとるんだろう。それを、酔っ払って何だと思ってるんだ!」と云いながら彼はまた野口昌作の方へ向き直った。「愚図愚図しないで、降りちまえ。この通り人の邪魔だ。降りた上で俺が相手になってやる。」
野口昌作は咄嗟に口が利けないで、眼をしぱしぱやった。そして口を聞くまもなく、麦藁帽の男の強い力に圧せられて、突き落されるように街路へ降り立った。その前に男は、両腕を胸に組んでつっ立った。
「先刻から黙って聞いておれば、何だ貴様は、車掌がおとなしく下手に出とるのに、いやに図に乗って、立派な職務妨害だぞ。喧嘩の相手がほしければ、俺が相手になってやる。さあ云い分があるなら、云ってみろ。」
もう周囲にはぐるりと人が立並んでいた。「やれやれ!」という声も聞えた。電車の前方から、も一人の車掌と運転手とが降りてきた。木原藤次は少し離れて、手短かに事の顛末を述べていた。人々の気持が緊張して尖っているのが、その顔付にありあり見えていた。野口昌作は意外の敵に面喰って、あたりをじろりと見廻したが、その時何かしら彼の心に、どっしりこたえたものがあった。自分の方に好意を寄せていな
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