矢野浩一は、三千子を従えながら、野口昌作と高倉玄蔵との喧嘩のあたりから、終りまでを見物してしまった。高倉がすっぱりと足払いで野口を投げ倒した時、彼は思わず手を叩こうとする所だった。沼田巡査には初めから反感を懐いた。「逃げちまったよ」と云ったのも彼だった。それから、高倉が大きい図体をしながら、沼田の前にいやに悄気返っているのを見て、歯がゆくて堪らなかった。所が安藤が出て来て、いやに横柄な口の利き方をするのが、少し癪に障ってき、沼田に対する反感が、安藤の方へ向いていった。そればかりならばまだよかったが、安藤が沼田の肩を馴々しく叩いた頃から、中の三人には分らなかったけれど、群集の中に、殊に後ろの方に、一種の乱れが起ってきた。
初めは殆んど感じられないほどの、何かの気配《けはい》だったが、人々の息を凝らした沈黙やひそかな耳語が、その気配のうちに巻き込まれていって、やがて無音の大きなざわめきを作った。知らず識らず皆の気分が、そのざわめきに煽られて、一つの不安を撚りをかけられた。不満とも鬱憤ともつかない、また期待の念ともつかない、何かしらじりじりした、自から動き出そうとするものだった。それが、安
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