云い寄ることをしなかった。然るに内々探りをかけてみると、向うでも多少こちらに気のあるという、自惚の念が湧いてきた。そして機会ある毎に二人きりになる方法を講じた。その晩も丁度彼は三千子と落合って、二人で活動写真を見にいった。息をつめて腰掛に蹲っていると、彼女の温みが伝わってきた。しまいには我慢しかねて、彼女の手をそっと握った。彼女は暫くじっとしていたが、やがてその手先を振り払った。彼はすっかり面喰った。そして更に困ったことは、彼女は写真の終るのを待たないで、面白くないから出ようと云い出した。彼はすごすごと後にしたがった。それから街路を、何処へともなく歩いてるうちに、彼は変に胸苦しくなってきて、丁度一人で彼女のことを思い耽ってる時と、同じような心地になった。そして堪えきれなくなって、そっと云い出してみた。
「怒ってるの。」
「何を!」
 振向きもせず答え返して、彼女はつんと歩いていった。
「僕があんなことをしたからさ。」
「どんなこと?」
 彼はぷっぷっと唾を吐いた。それを横目にちらと見やって、彼女はくすくす笑い出した。
「何を笑ってるんだい!」
「怒ってるの。」と此度は彼女の方から尋ねか
前へ 次へ
全32ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング