れを眺め、次に眼を転じて、もう落付いてる沼田英吉の顔色を眺め、それから、静かな群集を一わたり見廻して、或る擽ったいような得意の念を覚えた。そして頭を軽く動かして、独り自分の胸にうなずいた。何をだかは彼自身にも分らなかったが、そうすることによって、漠然とした安逸な肯定感が胸にしっくり納ったのである。
 そこで彼は一寸口髯の先をひねって、快い微笑を浮べながら、誰にともなく云った。
「じゃあ、これで失敬。」
 然し彼の心は、「御機嫌よう」と云っていた。それを彼は胸に抱きしめて、一寸間を置いて、三四歩進みだした。
 その時、何処からともなく可なり大きな石が飛んできて、身を反らし加減にしている彼の、右の鎖骨の所へはっしと中《あた》った。
「あっ!」と彼は思わず声を立てて、鎖骨の上を掌で押えた。

 石を投ったのは、下宿屋の息子の今年十六歳になる、矢野浩一という不良少年だった。彼はその時、佐伯三千子という、やはり同年配の不良少女と連立っていた。
 矢野浩一は以前から、佐伯三千子に心惹かされていた。然し彼は、仲間同志の男女関係を余り喜ばない、彼等の間の風潮を恐れ、また自分のニキビ顔を気にして、露骨に
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