方を飛び越して、代りに一般道徳論を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入し、その峻烈な而も何処か辻褄の合わない論告を、重い求刑の言葉で結んだ。可なり意外な空気が法廷に漂った。そして彼自身が最もその空気を鋭敏に感じた。彼は法廷を出ると、悪夢からさめたようにほっとした。昔の恋人の幻が消えて、失策をしたという意識だけが残った。それを今後の立論で補うことにして、一先ず理知的の落付きは得たが、当座の心の落付きがどうも得られなかった。裁判所の室で遅くまで時間を過し、それから銀座の方を歩き廻った。そしてるうちに、不思議な――然し彼にとっては至って自然な――方向へ心が向いてきた。何かしら人間間のごたごたした諍《いさか》いを止めさして、互に手に手を握り合わせるようなことを、自分の力でしてみたくなった。温和な論告をした後には峻厳な心持になり、峻厳な論告をした後には温和な心持になるのが彼のいつもの心理だった。そして今彼は、温厚な君子然とした心持を懐いて、高倉玄蔵と沼田英吉との対抗に出逢ったのである。二人の和解を欲する余りに、相手や場所柄をも顧慮せず、自分の名刺[#「名刺」
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