沼田英吉は不審そうにそれを受取って、相手の顔から名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]へ眼を落した。名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]には太い活字で東京地方裁判所検事安藤竜太郎、と刷り込んであった。
沼田英吉は思わずはっと姿勢を直した。
沼田巡査までが名前を聞き知っている、地方裁判所での上席検事安藤竜太郎は、その日公判の論告をやったのだった。情夫殺しとして新聞に書き立てられた、某美人に就てのものだった。彼はその予審調書によって、充分情状酌量の余地あることを見て取って、可なり寛大な論告草稿を拵えておいた。所が、公判廷で見た被告の横顔によって、どうした感情からか、昔の自分の恋人を思い出したのである。今迄嘗てなかったことではあるし、神聖なる法廷に於てのことなので、自分でも意外だったが、変にその方へ感情が引かされてゆき、憎悪の眼が被告の方へ引かれていって、どうにも仕方なくなった。彼の今の出世も、昔苦学をしていた頃その恋人に捨てられた後の、発奮の賜物ではあったけれど、そのまま怨恨だけが胸の奥に巣喰ってたものらしい。それが突然顔を出してきて、彼の論告をめちゃめちゃにした。彼は酌量すべき情状の
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