っと唇をむすんで、びくとも動かなかった。その肥大な体躯の中で、何等かの決意に迷っているらしかった。その様子を眺めて、沼田英吉は何かしらぎくりとしたが、さあらぬ風に嘯いて、相手の言葉を待受けた。
三秒四秒と、緊張した沈黙が引続いた。群集は益々ふえて、片唾をのんで待受けていた。後ろの方でひそひそと囁く声が、その不安な空気を更に濃厚にした。
然るに、意外なことで沈黙が破られた。群集の中から、パナマ帽を目深に被り、仕立下しの薄茶色の洋服をつけ、握り太のステッキを手にした、可なりの年配の男が、つかつかと出て来て、二人の前に立止った。
「もうどちらもいい加減にしたらどうだい。おとなしく別れてしまった方が得策じゃあないか。」
声の調子がいやに落付いているので、沼田英吉は一歩退って、その様子を見調べた。
「君の職務上の考慮も充分に分っているが、」と男は云い進んだ、「何しろも一人の男も逃げてしまったそうだし、まあこれくらいにしておいたらいいだろう。僕に免じて此処のところは引取ってくれ給え。」
そうして彼はポケットの紙入から名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]を取出して、沼田英吉に手渡しした。
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