る時、彼は一寸男の肩へ手をやって、押し加減にしながら云った。
「中の方が空いていますから、中へ願います。」
 瞬間に、男はひどく大きな声を立てた。
「馬鹿にするない。ここだって空いてるじゃないか。」
 木原藤次は、彼のその威猛高な見幕によりも、事の意外なのに喫驚して、その喫驚した自分の心を立直すために、「お早く願います、」と乗客の方へ云い捨てておいて、運転手への相図の鈴《ベル》の綱をやけに引張った。そして電車が動き出してから、じいっと洋服の男の方へ眼を向けた。酒に酔った赤黒いその横顔が、自分を嘲ってるように思い做された。
「車掌台に乗るのは規則違犯ですから、中の方へお願いします。」
「何が規則違犯だ!」と男はまた怒鳴り返えした。「満員の時は乗せるじゃないか。規則規則って、いやに鹿爪らしいことを云うない。」
 そうなると木原藤次は、自分の職務をはっきりと身内に感じてきた。その上、乗降口と反対の方の車掌台に立っている二三人と、車内の吊革にぶら下ってる人々とから、物珍らしげな視線が一時に集ってきた。もうそのまま引込むわけにゆかなかった。
「規則は規則です。」と彼は云った。「中が一杯なら兎に角
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