識の外に投り出して、ただ勤務時間が終って休息が得られる時のことを、待つというほどではなく、向うから自然とやってくるのに、ぼんやり思いを走せているのだった。
その時、先刻から車掌台の横手につかまって、車の動揺にふらふらと身を任せながら、客の乗降《のりおり》の邪魔となってる洋服の男が、彼の眼に止った。パナマの帽子を被り、ネクタイピンを光らし、片手で窓際の鉄棒につかまり、片手を麻のズボンのポケットにつき込み、赤の短靴の先を鼻唄の調子でも取るような風に動かし、時々ふーっと酒臭い息を吐いてる、会社員風の中年の男だった。それが三度ばかり、客の乗降の邪魔となって、それでもなお其処を動きそうにないのを見て、木原藤次は、別に何ということもなく、長い間の習慣から、機械的に声をかけてみた。
「中の方に願います。」
洋服の男はちらと振向いたが、ふふんと空嘯いた顔付で、また向うを向いてしまった。
それが一寸木原藤次の気にさわった。次の停留場で、大きな行李を背負った小僧が降りようとした時、彼はその行李に手を添えてやる風を装いながら、それを洋服の男の背中の方へぐいと押しやった。そして次に、二三人の客が乗ってく
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