たくもなかったし、一意忠勤の精神に背きたくもなかったので、勇を鼓して出勤した。チブスときまったら、すぐ妻から知らしてくる手筈だった。その知らせを彼は、びくびくしながら待っていた。所が夕方になって、悪い廻り合せには、その日俄に署員の不足を来したとかで、半夜の警戒をも命ぜられてしまった。彼は元気よく命を奉じたものの、交番の前に立つと、じっとして居られないように心が騒いできた。子供の病気がチブスであるかどうか、という苛立たしい思いが一つ、果してチブスだった場合には、自分の体面のために医者へ頼んで隠蔽して貰うべきか、或は万事を犠牲にして規則通りに処置すべきか、という公私の間の去就に迷った思いが一つ、その二つが頭の中で煮えくり返った。そのうちに時間は過ぎていった。そして高倉玄蔵と野口昌作との喧嘩に出合ったのだった。
 初め彼は、出来るだけ温和な態度で臨んで、二人を無事に和解させるつもりだった。所が、顔に浮べようとする微笑や強いて装おうとするやさしい声の調子などは、朝からの焦慮と疲労とのために、中途で変にぎごちなく凍りついてしまった。その方へ気を取られてるまに、二人の争論はなお続いてゆき、一度目の
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