い余計なことに思われてきた。彼は充ち足りない心を懐いて帰ってきた。自分自身が軽率で愚かであるような気もした。そしてまたその反動として、或る漠然たる正義観念で胸が脹れ上った。電車の中にどっしりと腰を下して、両肱を膝の上に張りながら、世風を慨するといった眼付で、自分の愚かさを自らごまかす気味も加わって、あたりを睥め廻していたのである。そこへ、野口昌作と車掌との事件が起ってきた。
 高倉玄蔵にとって第一気に喰わなかったことは、野口昌作の才走った屁理屈だった。次に気に喰わなかったのは、人造絹のネクタイに光ってる、彼のネクタイピンだった。新月形の金に星を象《かたど》ったダイヤを加えてる、いやに女々しい趣味のものだった。それにちらと眼を留めた時から、彼の正義観念は反感の色に染められていった。我慢出来なくて遂に野口昌作を突き降してしまった。そして勝利の念で一杯になってる時、電車と車掌とに逃げられてしまい、惘然とした瞬間から我に返ると、もうそのままでは自分の体面が保てない気がして、その上腕がむずむずしてきて、思うさま相手を引叩いてやった。ただ不幸なことには、野口昌作の方が先に蹴りつけようとしたことを、
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