、麦藁帽の男は野口昌作を睥みつめ、野口昌作は巡査を惘然と眺め、巡査は麦藁帽の男を見上げながら、一二秒の間そのまま立ちつくした。
野口昌作を殴りつけた、麦藁帽に浴衣がけのこの正義派は、城北中学校柔道師範、講道館二段の免許を有する、高倉玄蔵という三十歳に満たない青年だった。その城北中学に、年老いた漢文の教師がいた。頭は古くて偏狭だったが、自分に信ずることは一歩もまげないという、清廉硬骨の老人だった。新しく校長となった文学士と、いつも折合が悪かった。そして何処からともなく、学期が済んで休暇になり次第免職されるという噂が、確かな根拠もなく伝わっていった。その噂に人一倍憤慨したのは、老教師の人格を尊敬している高倉玄蔵だった。彼は学校で噂をちらと耳にしてから、夕食の折五六杯の酒に赤くなりながら、人の善い細君を相手に悲憤慷慨した。そして細君の同感ではなお物足りなくて、退職将校で体操の教師をしている同僚の家を訪れ、二人で大に校風の頽廃を論じ合った。然し結局の所、漢文の老教師の免職云々は、単なる噂に過ぎなくて、それについての対策を立てるなどは、早計な馬鹿げたことであるばかりでなく、直接自分と関係のな
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