は底本では「名剌」]をさしつけてしまった。
「万事穏便に計らった方が、皆のためになるというものだよ。」と彼は云った。
「は!」と沼田英吉は棒立になったまま答えた。
「僕は福坂署の署長とは懇意にしているから、君のこともよく話してあげよう。君の職務怠慢とはならないように、僕が一切の責任を帯びるよ。そして、君の名前は?」
 沼田英吉は一寸たじろいだ。そして暫く考えていたが、何と思ったかいきなり頭を下げた。
「名前だけは容捨して頂きます。」
 安藤竜太郎は微笑を浮べた。そして相手の肩を心地よげに叩いて云った。
「心配することはないよ、君。云いたくなければ、僕も寧ろ聞かない方が望みなんだ。では、これで引取ってくれるね。」
「はい。あなたがそう仰言るならば引取ります。」
 それでも彼はまた一応、高倉玄蔵の方をじろりと見やった。安藤竜太郎はその視線を辿って、高倉玄蔵の方へ向き直った。
「君も余り強情を張らない方がいいでしょう。兎に角腕力沙汰は控えたが宜しいですよ。相手がどんな怪我をするか分りませんからね。」
 高倉玄蔵はすっかり悄気《しょげ》かえった風で、黙って首垂《うなだ》れていた。安藤竜太郎はそれを眺め、次に眼を転じて、もう落付いてる沼田英吉の顔色を眺め、それから、静かな群集を一わたり見廻して、或る擽ったいような得意の念を覚えた。そして頭を軽く動かして、独り自分の胸にうなずいた。何をだかは彼自身にも分らなかったが、そうすることによって、漠然とした安逸な肯定感が胸にしっくり納ったのである。
 そこで彼は一寸口髯の先をひねって、快い微笑を浮べながら、誰にともなく云った。
「じゃあ、これで失敬。」
 然し彼の心は、「御機嫌よう」と云っていた。それを彼は胸に抱きしめて、一寸間を置いて、三四歩進みだした。
 その時、何処からともなく可なり大きな石が飛んできて、身を反らし加減にしている彼の、右の鎖骨の所へはっしと中《あた》った。
「あっ!」と彼は思わず声を立てて、鎖骨の上を掌で押えた。

 石を投ったのは、下宿屋の息子の今年十六歳になる、矢野浩一という不良少年だった。彼はその時、佐伯三千子という、やはり同年配の不良少女と連立っていた。
 矢野浩一は以前から、佐伯三千子に心惹かされていた。然し彼は、仲間同志の男女関係を余り喜ばない、彼等の間の風潮を恐れ、また自分のニキビ顔を気にして、露骨に
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