沼田英吉は不審そうにそれを受取って、相手の顔から名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]へ眼を落した。名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]には太い活字で東京地方裁判所検事安藤竜太郎、と刷り込んであった。
沼田英吉は思わずはっと姿勢を直した。
沼田巡査までが名前を聞き知っている、地方裁判所での上席検事安藤竜太郎は、その日公判の論告をやったのだった。情夫殺しとして新聞に書き立てられた、某美人に就てのものだった。彼はその予審調書によって、充分情状酌量の余地あることを見て取って、可なり寛大な論告草稿を拵えておいた。所が、公判廷で見た被告の横顔によって、どうした感情からか、昔の自分の恋人を思い出したのである。今迄嘗てなかったことではあるし、神聖なる法廷に於てのことなので、自分でも意外だったが、変にその方へ感情が引かされてゆき、憎悪の眼が被告の方へ引かれていって、どうにも仕方なくなった。彼の今の出世も、昔苦学をしていた頃その恋人に捨てられた後の、発奮の賜物ではあったけれど、そのまま怨恨だけが胸の奥に巣喰ってたものらしい。それが突然顔を出してきて、彼の論告をめちゃめちゃにした。彼は酌量すべき情状の方を飛び越して、代りに一般道徳論を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入し、その峻烈な而も何処か辻褄の合わない論告を、重い求刑の言葉で結んだ。可なり意外な空気が法廷に漂った。そして彼自身が最もその空気を鋭敏に感じた。彼は法廷を出ると、悪夢からさめたようにほっとした。昔の恋人の幻が消えて、失策をしたという意識だけが残った。それを今後の立論で補うことにして、一先ず理知的の落付きは得たが、当座の心の落付きがどうも得られなかった。裁判所の室で遅くまで時間を過し、それから銀座の方を歩き廻った。そしてるうちに、不思議な――然し彼にとっては至って自然な――方向へ心が向いてきた。何かしら人間間のごたごたした諍《いさか》いを止めさして、互に手に手を握り合わせるようなことを、自分の力でしてみたくなった。温和な論告をした後には峻厳な心持になり、峻厳な論告をした後には温和な心持になるのが彼のいつもの心理だった。そして今彼は、温厚な君子然とした心持を懐いて、高倉玄蔵と沼田英吉との対抗に出逢ったのである。二人の和解を欲する余りに、相手や場所柄をも顧慮せず、自分の名刺[#「名刺」
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