「なに、俺を警察へ……行ってやるとも。後で後悔するな。さあ来い。」
 そして高倉玄蔵は、先に立って一歩ふみ出したが、その時、群集の中からちらと、見覚えのある顔が見えたような気がした。で足を止めて、周囲に立並んでる人垣を、じろりと見廻したが、もうそれらしい顔も見当らなかった。けれども、そのことが彼の頭に一片の思慮を送った。この群集の中に、学校の生徒などが交ってるかも知れない、と思ったのをきっかけに、学校……教職……体面……などということが浮んできて、警察に引かれるという汚名が、はたと胸にきた。進退に窮した形で、其処にじっと佇んだ。
「何を愚図ついているのだ?」と巡査は促した。
 それを高倉玄蔵は耳にも入れなかった。地面に眸を据えたまま、暫く考え込んだ。とふいによい考えが浮んだ。相手の男を同行しさえすれば、自分の名分は立つ訳だ。
「此奴も一緒に引張って行って貰おう。」と彼は云った。
「無論だ。」と巡査は応じた。
 そして二人は、其処に起き上ってつっ立ってる筈の野口昌作の方へ向き返った。所が其処には誰もいなかった。見廻しても姿さえ見えなかった。二人は茫然とした。
「逃げちまったよ。」と群集の中から誰かが云った。続いて笑い声もした。
 その嘲るような調子に、殊にぐいと胸を突かれたのは、巡査の方だった。

 福坂警察署所属巡査、沼田英吉は、その日殊に心配があった。四五日前から子供が発熱して、毎日三十九度以上の高熱が続いた。医者は何の病気とも断定しかねた。そしていろんな徴候からして、時節柄チブスの疑いがあった。それを聞いた時、沼田英吉はひどく困却した。もし本当にチブスだとすれば、他の二人の子供にも感染する恐れがあるし、殊に病児の看護をしてる妻にはその恐れが多いし、そのために貧しい一家の生活が破綻するのは、眼に見るように明らかだった。そればかりではなく、いやしくも町内の衛生をも監督する地位にある警官の家から、伝染病患者を出したとあっては、署の人々へは勿論近所の人達へも、顔向けが出来ないような気がした。そして病児がチブスであるかどうかは、その日のうちに決定する筈だった。妻が子供の便と尿とを、朝のうちに医者へ届けた筈だから、午頃までには、遅くも夕方までには、検査の結果が明かになる筈だった。彼はその結果が分るまで、その日一日欠勤しようかと思った。然し、今迄精勤の評を取ってる名前を汚し
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