彼は不覚にも気付かなかった。そして巡査から腕を支え止められて、一寸弁解の辞に窮した。
「乱暴はお止しなさい。」と巡査はきっぱり云った。
 高倉玄蔵はおとなしく手を下したが、まだぼんやりつっ立ってる野口昌作の方を顧みて云った。
「貴様のような卑劣な奴には、鉄拳が相当しとるんだ。」
「まあいいです。」と巡査は彼を制した。「穏かに話せば分ることでしょう。一体どうしたのですか。」
 高倉玄蔵はその時、巡査がまだ何も知らないでいることを見て取った。そして自分の行為を弁護する口実を見出した気で、初めからのことを説明した。所が車掌に逃げられたあたりになって、ひどくまごついてしまった。それをむりやりに云い進んだ。
「車掌を引留めておいては、他の乗客の迷惑になると思って、すぐに発車さしてやった。所がこの男まで一緒になって逃げようとするから、引据えたのだ。」
「嘘を云え。」と野口昌作は俄に元気づいたかのように、初めて口を開いた。「貴様は車掌を取逃した口惜しまぎれに、俺を殴ったのだ。車掌の方も悪い点があるからこそ、逃げ出してしまったじゃないか。さあ貴様は、俺に無法な拳をあてておいて、この始末は何とする? 謝罪しろ、すぐに謝罪しろ。」
「まあ静になさい。」と巡査は言った。
「いやこのままで済せるものか。人の頭を殴っておいて、一言の挨拶もなしに、それでよいかどうか、考えてみ給え。君で分らなければ、警察に同行するまでのことだ。……おい、何とか云ってみろ。何で黙りこくってるんだ。」
 そして彼は、高倉玄蔵の方へつめ寄って行った。
 高倉玄蔵は、車掌の逃亡をうまく云いくるめられて、太い眉根をぴくぴくさしていたが、今相手につめ寄って来られると、我を忘れてまた右手を振上げた。それを巡査に支えられた瞬間、彼は左手を差伸して、野口昌作の襟に手先がかかるや否や、ぱっと足払いにいった。それが見事にきまって、野口昌作は仰向にひっくり返った。
「暴行をするな。」と巡査は叫んだ。
「何が暴行だ?」と高倉玄蔵は鸚鵡返しにした。「こんな奴はひどく懲らしめておくが至当だ。こういう軽薄な屁理屈屋がのさばるから、世の中が害される。貴様まで此奴に瞞着されて、それで警官が務まると思っとるのか。顔を洗って出直して来い。」
 巡査はぐいと彼の手首を捉えた。
「暴行を働いた上に暴言を吐くのか。よし、本署まで同行するから、一緒に来い。」
前へ 次へ
全16ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング