たくもなかったし、一意忠勤の精神に背きたくもなかったので、勇を鼓して出勤した。チブスときまったら、すぐ妻から知らしてくる手筈だった。その知らせを彼は、びくびくしながら待っていた。所が夕方になって、悪い廻り合せには、その日俄に署員の不足を来したとかで、半夜の警戒をも命ぜられてしまった。彼は元気よく命を奉じたものの、交番の前に立つと、じっとして居られないように心が騒いできた。子供の病気がチブスであるかどうか、という苛立たしい思いが一つ、果してチブスだった場合には、自分の体面のために医者へ頼んで隠蔽して貰うべきか、或は万事を犠牲にして規則通りに処置すべきか、という公私の間の去就に迷った思いが一つ、その二つが頭の中で煮えくり返った。そのうちに時間は過ぎていった。そして高倉玄蔵と野口昌作との喧嘩に出合ったのだった。
初め彼は、出来るだけ温和な態度で臨んで、二人を無事に和解させるつもりだった。所が、顔に浮べようとする微笑や強いて装おうとするやさしい声の調子などは、朝からの焦慮と疲労とのために、中途で変にぎごちなく凍りついてしまった。その方へ気を取られてるまに、二人の争論はなお続いてゆき、一度目の暴行が起った。彼はいつになく落付を失った。高倉玄蔵から罵られて、自分でも不思議なほどかっとなった。それから野口昌作に逃げられて、群集の中からの嘲りに出逢うと、彼は片手に佩剣の柄を握りしめた。それでもすぐには口が利けなかった。そこを相手の方から先んぜられた。
「あの男が居なくなった以上は、僕一人警察へ行く義務はない。これで失敬する。」
そして高倉玄蔵は二足三足歩きだした。その手首を、沼田英吉はまた捉えた。
「兎も角も、本署へ同行して貰いましょう。」
「馬鹿なことを云うな。俺一人行って何にするのか。あの男を探し出して来給え。あの男と一緒ならいつでも行ってやる。取逃がしたのは君の責任ではないか。さあ捕えて来給え。俺は此処にこうして、逃げも隠れもしないで待っていてやる。俺一人を引張っていって、俺に責任を塗りつけようとしても、そうはいかないぞ。」
「然し君は兎に角、暴行を働いた本人だから、本署まで同行するのが当然だ。本署へ行った上で、云いたいことがあったら云うがいい。」
そして沼田英吉は彼を引立てようとした。その手先を彼は払いのけた。
「あくまでも君は手向うのか。」と云って沼田英吉は相手の顔
前へ
次へ
全16ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング