、笑いながら云うのだった。
「あの寺井さんね、あれが、岸本の初恋の人だそうだよ。」
「まあ。」
 奥さんは呆れたように岸本をじろじろ眺め初めた。岸本の方で呆れ返った。何をそんなに笑ったり呆れたりすることがあるのか、腑におちなくて、弁解する気にもなれなかった。「東京の人」はものずきな閑人が多いと聞いていたが、この人たちもそうかしら、などと考えるだけの余裕がもてて、逆にこちらから二人の様子を窺ってやるのだった。それが、さすがに女だけに敏感で、奥さんの方には反映したのであろう。やさしい笑顔をして、いろいろ尋ねてくるので、岸本も仕方なしに受け答えをしてるうちに、事情が自然にうき出して、初恋というほどのものでなかったことも分り、寺井菊子さんは良人に死に別れて、不仕合せのうちに健気にも、小さなバーを経営して奮闘してる由も分ったのだった。
「昔のよしみに、飲みにいってやり給えよ。」
 依田氏はそう云って愉快そうに笑うのだった。奥さんも別にとめようともしないで、ほんとの初恋になったら大変ねなどと、にこにこしていた。中学を出たばかりの岸本には、それがまた余りに自由主義的で、律義な両親のことなどを比べ考え
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