ているのかと案外静かに聞くのだった。
「もう昔のことで、一二度逢ったきりですから、向うは御存じないでしょうが……。」
 そして口を噤んだのだが、依田氏がその続きを待つように黙っているので、彼は云ってのけた。
「何ですか、あのひとを本当に好きで、そのことばかり考えていた時があるような気がするんです。」
 云ってしまってから、彼は顔が赤くなるのを感じて、自分でもばかばかしく思ったが、それよりも、依田氏が小さい眼をじっと――それもやさしく――見据えたまま、口髭をなお一層逆立て、太い首を縮こめて、呆れたように云うのだった。
「すると、君の初恋というわけかね。」
 そしてふいにばかげた哄笑がとびだしてきた。岸本は抗弁しようと思ったが、言葉が見つからなくてまごついてるうちに、依田氏の太い指先で卓上の呼鈴が鳴らされ、出て来た女中に、奥さんを呼べというのである。岸本は何事かと思って、寺田菊子さんのことはそのままに、口を噤んでいると、やがて出て来た奥さんが、依田氏に似ずばかに小柄なひとで、細っそりした胸に帯がふくらんで目立って、少し険のある高い鼻の顔をつんとすましてるのだった。依田氏はすぐ岸本を紹介して
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