ては、心の落ちつけどころが分らなくなるのだった。
 然しそうしたことから、岸本は意外にも依田氏夫妻と親しみが出来、また、寺井菊子のバー・アサヒ(恐らく郷里の旭川からとってきた名前であろう)へも出入するようになった。
 初めは、さすがに、様子が分らないので、午後、客のなさそうな時間にいってみた。上野公園を少し歩いて、広小路を二度ばかり往き来して、それから横町に曲ると、すぐに分った。赤黒く塗ってある扉を押してはいると、中は変に薄暗く、高い窓の硝子だけがぎらぎら光って、室の真中に大きな鉢の植木が、お化のようにつっ立っていた。その向うにいろんな瓶の並んでる棚の前に、コップを拭いてる背の高い女がいて、近視眼みたいな眼付でこちらをすかし見ながら、機械的に微笑してみせた。見覚えがあるようなないようなその顔に、岸本は一寸ためらったが、つかつかと歩いていって、お辞儀をした。
「寺井さんは、あなたですか。」
「はあ。」
 怪訝[#「怪訝」は底本では「訝怪」]そうなそっけない返事だった。がその時、岸本ははっきり思い出した。不揃いな髪の生え際と深々とした眼附……。だがそれだけで、ほかは夢想の彼女とまるで違って
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