んできた。彼の肩をかすめ、戸棚にぶつかり、大きな音を立てて、その息苦しい淀んだ空気の中に冷風を吹きこんだようで、砕け散った。
 それが、誰にも――角刈の男自身にも――何のことやら分らないほんの一瞬間のことで、次の瞬間には、岸本は自分の卓子を離れて、そこらをのっそり歩きながら、静かな調子で云ってるのだった。
「つまらない邪推はやめ給えよ。マダムとあの人とは何の関係もない。僕がよく知っている。」
 岸本と彼等とは、度々出逢って顔見識りの間ではあったが、そんな風に初めて口を利きあったのはおかしなことには違いなかった。そればかりでなく、コップの一件もすぐに忘れられて、角刈の男もこちらに出てきて、みんな一緒になって、本当にそうかと尋ねかけてくるのだった。そうだと岸本は断言した。その証拠には、マダムはあの人の家に出入りしてるし、奥さんとも昔からの懇意であると、饒舌ってしまった。それが、彼等の狡猾な笑いを招いた。それこそ猶更、マダムと「ドラ鈴」とが怪しい証拠で、もう公然と第二夫人ではないか。そこんところに気付かないのは、さすがに学生さんは若い若い、というのであった。そして彼等から笑われると、岸本はな
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